「日本の子ども」

クヤ・アルが撮った映画、Batang Japan の意味がわかった。
「日本の子ども」
Bata sa Japan(日本にいる子ども)ではないところがミソだと、教えてくれたみおちゃんは言った。
とてもいい映画、素直なリアリティを感じたんだけど、あとでふと気になった。フィリピンから母をたよって日本に来た子どもたち、暮らしていくうちに友だちもできて、家で誕生日のパーティをしたりするが、その友だちのなかに、日本人は、いない。フィリピン人ばかり。出てくる日本人は、母親の再婚相手と工場の社長ぐらいじゃないか。
でも、それが不自然じゃない。日本ならそうだろう、と思う。

でもそれは、本当はすごく異様だ、と、自分がフィリピンに行ったときのことを考ると、思う。ゴミ山のスラムに滞在して、そのあたり歩きまわっていて、一週間もいれば、あがりこんで子どもと遊ぶような家はいくつもあった。みんながよってたかって、かまってくれたし、世話してくれた。あああっという間に、知らないふりのできない、なつかしい場所になってしまった。

学生のとき、韓国に行ったときも、一週間で、ノートには30人以上の名前が書かれていた記憶がある。それだけの人にお世話になった。最初の3日間、まったくお金を使わなかった。知り合った誰かが、食べさせてくれて泊めてくれた。ハプチョンでもそうだった。

ということなど考えると、この国のよそよそしさは、異様だ。
外国人だから? でも彼らは、この国で生きていく子どもである。

昔、下宿の隣の部屋に中国人留学生がやってきて、親しくなった。周さんというとても気持ちのいいお兄さんだった。彼は、最初のうち日本食が食べれなかったから、バイト先でもらうお弁当を私にくれたり、休みの日なんかは、中国の家庭料理をつくってくれたりした。私は廊下で髪を切ってあげたりした。
どっからかもらったたくさんの石けんが台所でねずみに囓られていて、その石けんを半分こしたりして、それから私は、ねずみさん、と呼ばれていたんだけど、私が広島を出ていくときに、周さんが泣きそうだった。
「ねずみさんがいなくなったら、ぼくはどうしよう。ぼくはねずみさんのほかに、日本人の友だちがいない。」
というので驚いた。だってもう来日して、半年以上は過ぎていた。大学にだってアルバイトにだって毎日行っていた。私が不思議がると、
「たぶん、日本人は、ぼくをいらない。ほかの日本の学生も、ぼくをいらない。日本人の友だちは、ねずみさんだけ。」というのだった。
「だから、彼と喧嘩して、はやくここに帰っておいで」
って、送り出してくれたんだけど、それで私は東京に行ったんだけど、
2年後に離婚して、帰省の途中に寄ったら、大学も移転したあとで、周さんもとうに、その部屋を引き払っていた。
なんだよ、せっかく喧嘩して帰ってきたのに、と、ちょっと思った。

「日本人はぼくをいらない」
留学生にそんなことを言わせる、この国はずいぶんさびしい。

もうひとつ映画。
これは「朝鮮の子」という1953年の映画。30分。
http://www.elufa.net/movie/movie.html

貴重なフィルムでしょう。なかにゴミ山で働く人たちの姿が出てきて、フィルムは白黒だけど、頭のなかで、パヤタスのゴミ山と重なってカラーになって、鼻先に臭いがもどる。ああ、いろいろとつながっている。

クヤ・アルの映画にならえば、彼らもまた「日本の子ども」。
この国で生まれてこの国で生きる。
その子どもたちを、傷つけて平気な国であるということが、おそろしい。

貼っておきます。日刊イオ。「本当に腹立たしい」
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/5dfce17f6079b31c00d8f7ca26238dfa