クヤ・アル

東京からクヤ・アル(レティ先生の甥)がやってきた。
車で、かれこれ16時間くらいかけて。
友人のレンさんと。
レンさんの友人が呉にいるので、休みを利用してそこへ行くのだという。
それで、ずいぶん遠いのに、わざわざうちまで寄ってくれたのだった。
クヤ・アルは東京でインターナショナル・スクールで働いているけれど、地震原発事故とで、先生たちも生徒たちもみんな帰国しちゃったから、学校は休みになったらしい。地震が起きたとき、子どもたちびっくりして泣いていた。
レンさんとははじめて会ったんだけど、クヤ・アルが撮った映画「Batang Japan」に出ていたから、はじめてという気がしない。

子どもが、興奮しておおごとだった。
東京から多摩ナンバーの車が来たというだけで胸に火がついた。あんなに初対面の人になつくのを見たことない。クヤ・アルはふつうにおだやかだし、レンさんも静かだし、特別なことは何もないのに、子どもだけ、興奮のあまり、走って近所を一周していたわ。
それから子どもは、クヤ・アルに空き箱でつくった電車を見せて、あろうことか、日本語のよくわかないレンさんに漢字辞典を見せて、お気に入りの漢字についてしゃべり出す。クヤ・アルの大きなカメラを使いたがり、またアルが使わせてくれるから、あやしげなものをばしばし撮っていたし(ああ、この家の散らかりようが、フィリピンのレティ先生のところにも届いてしまう)、ふたりが車で行くときも、角の向こうまで走って、見送っていた。

パパがいなかったから、叱られないというのもあったんだろうけど、まるでフィリピンで出会った子どもたちみたい。カメラを向けると、うわーと寄ってきて、とびはねたりふざけたりポーズとったり、自分がカメラ写したがったり。よその大人にうるさくまとわりつくようなことをして、日本人の親は、こういう場合、子どもをいさめるよなあと、思うけど、パパもいないし、相手はアルたちだし、子どもが甘えるにまかせました。
「子どもはこうよ。インターナショナルスクールにも500人子どもいて、なれているよ」とクヤ・アルは子どもが少々わるさしても平気。

思い出したのは、ゴミ山崩落惨事のあとの避難センターに行ったときのこと、ゴミ山にものぼれなくてゴミ拾いもできないし、子どもたち仕事からも家事からも解放されて、暇をもてあましていたんだろう。2週間の滞在中、行く度に、大騒ぎの子どもたちにとりかこまれて、輪になって、女王が踊るよ、という遊びを、汗が目に入るまで、倒れそうになるまで、していた。自分の子どもが、あのとき、あそこにいた子どもたちのひとりのように見えた。

ああそうだ、子どもって、こんなに喜ぶことの好きな、喜ぶことの上手な存在だったんだと、思い出して、おかーさんは、いますこし反省しています。

それはきっと、クヤ・アルやレンさんが、ありのままの子どもを受けとめるのが、とっても上手で、心の温かい人たちだからなんだろうな。
ほんというと、クヤ・アルに甘えたいのは(いつのまにか兄のように思ってるけど)、子どもよりも私だったと思うんだけど、だから、おかーさんがゆっくりお話したかったんですけど、まあ、しょうがない。

被災地の、子どもたちに、どうか楽しい時間がありますように。現実がどんなに悲痛なものだろうと、子どもが喜びとともにある、ということは、それ以上に大切な現実なんだと思います。

クヤ・アルがもってきたくれたラズベリー・パイ食べている。