よもしれん

「もう、そんなよもしれんもん、だしてきて」
と思った。
ところが、それが言えない。そのまま言っては通じないな、と思う。
でも、翻訳ができない。「よもしれん」は「とんでもない」ぐらいの意味だが、とんでもない、というと、それはまた違うのだ。

たぶん、言葉には日常的に不自由していると思う。ふだんの会話が、まあなんとなくやりくりしてはいるようなんだけど、ほんとのところで、言葉と心とがうちとけていない。うちとけないあたりに緊張があって、それは、土地や人間に対するうちとけなさにつながってもくるようで、広島も長いけど、広島弁苦手だし、使えないし、むろんきれいな標準語も使えないし、なんかなあ、自分のものではない言葉でしゃべってる。

その場しのぎに必要な言葉を喋ってはいるんだろうけど、外国で、言葉もわからなくて、身振り手振りでなんとかするときのぎくしゃくした感じと、ほんとのところ、あんまりかわりがない程度の、不自由さのなかで、ふだん生きていると思う。

ふっと、故郷の言葉が浮かんできたりするときに、そういうとき、心が言葉に対して、うちとけているのがわかって、こういううちとけ方ができるなら、ものいうこともこわくないのに、ああどうしてその呼吸のなかで、生きられなかったんだろうと、ひとりで勝手にせつない。

一生を、故郷の言葉のなかで生きられる人を、すこしうらやましく思う。

言葉が違うというのは、生きることの呼吸が違うんである。
というようなことを、考えたりする。



で、何が「よもしれんもん」か。
スーパーファミコンというやつである。
パパが昔、中古で500円で買ったとかいうやつを、引っぱりだしてきて、子どもと一緒に遊び始めた。
私はゲームができない。画面の変化に心臓がついてゆかん。
で、その「よもしれんもん」に夢中になったふたりは、ごはんと呼んでも来ないし、今声かけるなと逆ギレするし、私は素直だから、そんならもうごはんつくんないからな。

さらに、クリスマスが来るんである。何がほしいか、と爺婆がきいてくる。子どもは玩具しか欲しがらないし、それはもう部屋が埋まるぐらいあるし、何もいらないって、私が言ったって聞く耳もってくれないし、玩具はいらないから現金ください、現金、って喉元まで出てるけど、言えないし。

ゴミの山の子どものために、古着とか文房具とかあれこれ送ってやろうというのを、ことごとく断って、現金しかいらない、現金をくださいって、言ったら、なかには怒り出す相手もいたりして、面倒だったけど、それ以上に面倒だ。

義父さん、だいたい毎月2回ぐらいは孫に会っていて、その度に玩具を買ってやってる。パパがまた子守となると、玩具屋に連れて行って電車走らせる。もういいかげんにしてほしいのに、「よもしれんもん」がまた加わってしまった。
さらに、どうしてもクリスマスプレゼントを贈ると言い張ってきかない年上の知人がいたりして、しかも世の中には、任天堂DSとかいう、さらに「よもしれんもん」があるらしく、いらないいらないいらないって、10回くらいは叫んだのに、それがやってきそうな気配で、私はぞっとしている。

玩具はいらない。くれるなら、本か現金をください。古着でもいい。

子どもを、玩具のないところに連れていきたい。

なんか、とっても「よもしれん」世界に生きてて、うまく身を守れない。