3月1日

去年の2月の終わり、私は東京にいて、雪が降っていたのを覚えている。
ふと226事件もこんな雪の日だったかしらと、タイムスリップしたような感じがしたのだ。道を歩いていると、日本語よりも朝鮮語や中国語が聞こえ、店に入ると、中国人や韓国人の若い人たちが、たどたどしい日本語で注文を取りに来た。関東大震災のとき、この人たちは殺されたんだろう、とふと思って戦慄した。
小学校の高学年の社会科の時間に、先生が歴史のいろんなエピソードを話してくれた、そのなかで覚えているうちのひとつが、関東大震災のときに朝鮮人が殺された、「10円50銭」を言わされて、うまく発音できなければ殺された、という話。その日、私は自分がうまく発音できるかどうか不安になって、学校の帰り道「10円50銭、10円50銭」って、呟きながら歩いたんだ。

今は昔。今昔物語の出だしを、学校で現代語に訳すときは、今となっては昔のことだが、と訳したが、今は昔、の「は」は「=」のことだ、今も昔も同じだ、変わらない、ということだと、中上健次がエッセイのなかで書いていたが。
ここのところの東京や大阪の嫌韓デモの様子を見聞すると、死ねとか、殺せとか、常軌を逸しているし、たしかに、本当に、「今は昔」、朝鮮人虐殺はあったのだなあと、この国はそういうことをする国だったのだなあと、生々しい。

去年の3月1日。高校無償化除外に反対する集会が、広島の朝鮮学校でもあって、私も参加した。そのときのブログ。
http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/2012/03/post-e406.html

一年たって事態はさらに悪い。高校無償化除外の省令が改悪され、除外が決定したのを受けて、広島県広島市補助金を停止した。
地方自治って何ですか。権力に弱い土地柄だとは思ってましたけど、ほんとに情けない。

私が育った四国の田舎で出会う差別といったら、まずもって部落差別で、これはこれで相当にえげつないのでしたが、広島に来たら、部落差別に加えて、民族差別、被爆者差別なんでもありだなと思った。だからこそ、差別をなくそう、と心ある人たちは、たたかってきたはずでした。地方自治の現場でも。そのなかで、朝鮮学校への補助金も全国に先駆けて支給してきたはずでした。
何を血迷って自らの歴史を踏みにじるのだろう。

というより「自らの」を捨ててしまったんだ。
1年前、補助金停止を求める質問をした議員は、ほんとうはしたくなかったんだけど、党の意向だから仕方なかったと、問い詰められてそう洩らしたらしい。議員は自分の信念を語るわけではないんだなと、それはずいぶんあわれなことで、そんなあわれな連中を相手に話のしようもないと思った。
たぶんそんなふうに「自らの」を捨ててしまった人たちが、亡霊のように悪事をすすめているのだろう。それなりにまじめに職務をこなしつつ。

だけど、そんなふうな亡霊に票を入れなければならない民主主義って、いったい何でしょうか。

私は、学校に行って取材させてもらったからわかる。校長先生に原稿を見てもらったときも、その直しのあとを見たときも、ここまで配慮しますかというほどの心配りは、胸が痛いほどでしたが、地域社会に対しても子どもたちに対しても、どれほどこまやかに心を配っているか。こんな謙虚さは、日本の学校にない。向けられる不信や暴力に対しても、どれほど忍耐強く誠実に対しているか。人間の品位を感じたし、品位のある学校であろうとしているのを感じた。

その配慮や献身に対して、この仕打ちかと。
(もちろん品位のあるなしに関わらず、朝鮮学校は無償化の対象であるべきだし補助金支給も当然ですけど、……もし日本が品位のある国であるのなら)


無償化除外、補助金停止の背後には、排外主義があり、差別感情がある。それらを擁護する言説に、無責任は感じても、人間の品位は感じない。

日刊イオの記事
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/ede8e98eb0455509101b032ce2daf96f

今日3月1日、朝鮮学校で集会があるようです。都合つかなくて行けませんが、連帯します。