透明人間

3連休である。疲れる。

電子ピアノに録音機能があることは、こないだ子どもが教えてくれたのだった。自分の演奏を録音して聞かせてくれた。エリーゼのためにトルコ行進曲も、それからスケールまで、全部録音していた。
ということは。

夕方、私は台所で米をといでいたが、2階からトルコ行進曲が流れていて、ああ練習してるのね、と思った一瞬のち、胸騒ぎがした。
足音しのばせて階段のぼってみると、
ピアノの前にはだあれもいない。

当然そういうこともすると思ってはいたが、本当にするんだな。子ども、すみっこでひとりでオセロゲームしている。

あ、ああ、あ。
狼狽してあわててピアノの前にすわるが。

もうやめようか。ピアノやめよう。先生に電話かけてやめますって言う。
「それはだめ、それはだめ」
と抵抗する。
自分がきめたことなら、さぼらずにやんなさい。

結局、傍らで見てなきゃいけない。

見ていて気づいた。ピアノの椅子が白く汚れている。何かこれは。
「ぼく知らない」って言う。
嘘つけ。きみのほかに知っている人はいない。
白い絵の具か、修正液をなすりつけたような。拭いてもとれない。
誰がやったの。何をしたの。
「あ、もしかしたら、透明人間かも」と言う。
なるほど、透明人間はきみと同じ名前だと思うんだけど、
じゃあ、透明人間は何をしたのかな。
「あ、修正液かも」
透明人間はなぜ、修正液を塗ったのか。何を消そうとしたんだろう。
ああ、なんだかもうまどろっこしいが、探偵ごっこ。

「たぶん、何か、落書きしてあるとか思ったかも。でも椅子のしわが文字に見えただけで、落書きはなかったんだよ」
ふうん。でもウェットティッシュで拭くと、修正液は落ちないんだけど、ママの手はインクで青くなってるわけよ。ほら。ということは、ここには何か落書きがあった。透明人間は、何を使って落書きしたんだろう。
「これかな」と出してきた。ボールペン。
それで、透明人間のやったことは、きみしか知らないから、きみは言わなくちゃいけない。透明人間は、なんて書いたの。
「バカ、とか」
いつ書いたの。なぜ書いたの。
「わかんないよ。ただ落書きとか、してみたかったんじゃないのかな。でも何日かしたら、書かないほうがよかったかなと思って、修正液で消したんだけど、こんなことになったから、透明人間は逃げちゃったんだ」
そう。連れておいでよ。透明人間。ママが話があるって。
「え、無理だよ。透明人間は、ずっと向こうの遠い林のなかに、帰っていっちゃったんだ」
ふうん。じゃあ、きみも、ずっと遠い、林のなかで、透明人間と一緒に暮らそうか。ほら、出ていけ。

それから子どもが、泣くまで叱られたことは言うまでもない。
ママのへそくりはたいて買ったピアノなのに。落書きしてごめんなさい。パパがいつもきれいに掃除しているのに。大事に扱わなくてごめんなさい。遠い向こうの林の透明人間にも、本当はぼくがしたのに、透明人間のせいにしてごめんなさい。土下座して謝らせたけど、あんまり懲りたふうでもないなあ。



なのに子ども、夜になって言うのである。
「ママ、今日はほめることがあるでしょ」
だれを? 何をほめろって?
叱ることしか思いつかないが。
「ぼく、今日、自分でお尻を拭けた」
ああ、そうでした。トイレで▲の度に、ママを呼んでいたのが、今日は呼ばずに、ひとりでできた。ひとりでできるようになろう、と思ったらしい。
遅ればせながら、というか、やっと、というか。

ほめてあげるよ。うれしいよ。
ママはあんたのお尻から解放される。