岩燕と蛍とソクラテス

季節が移る。
軒の燕は、ずいぶん変わった巣をつくると思っていたら、岩燕、という種類らしい。息子の友人Nくんは、生物大好き男子。学校は燕の一大団地になっていて、にぎやからしいんだけど、うちの燕が変わった巣をつくると息子が言ったら、Nくんが、ああそれは、岩燕だよ、と教えてくれた。

  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

という斎藤茂吉の短歌が高校の教科書にあって、つばめの喉は赤い、と知ったわけだけど、岩燕の喉は白い。たしかに、今年のうちの燕ののどは白い。

4年前に、最初に巣をつくった燕の喉は赤かった。翌年来たのも。その年に雀に巣を襲われたり、わりと受難だった。それでも何羽か巣立った。3年ぶりにやってきた種類の違う燕は、つまり、異民族の古民家を改修して、巣をつくったわけらしい。

岩燕。晩春の季語とか。
子育てしている様子。ときどき、ジュビジジジジュビジュビ、という小さな鳴き声がする。でも姿がほんとに見えないの。巣にもぐってて。写真、入り口に頭がほんのすこしだけ見えている。

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持つべきものは、息子の友人かな。

また別の、ご本好きの友だちMくんには「精霊の守り人」(上橋菜穂子)シリーズを私は貸してもらって読んだし。Mくんは夢野久作が好きだというので、お礼に、夢野久作の文庫本4冊(昔、学生の頃に隣の部屋の先輩が卒業するとき譲ってくれた本)を、もらってもらった。思いっきりぼろぼろなんだけど、喜んでもらえたっぽくてよかった。

 

3日ほど前、蛍見に行こうって、息子誘って下の川まで散歩した。谷の道を暗い方へ暗い方へ歩く。田んぼのカエルが凄く鳴く、茂みの向こうががさがさするのは、鹿。懐中電灯持って歩いていたら息子が、たまに通る車のドライバーから見たら、ぼくらはきっと心霊物件だよと言う。たしかに。歩道の隅にお地蔵さま。いつの時代からここにいるんだろうね。蛍、ほんの数匹いた。

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さて、高校2年、理系にすすんだ息子だが、物理は去年の秋に心が折れて、生物選択。社会は地理一択。地理が一番好きらしいからそれはそれでいいのだが、理系クラスは、倫理・社会の授業がないと残念がっている。たしかにたしかに、それは残念。もっとも教養らしい教養と思うのに。
私が高校生のときの教科書が実家に何冊か残っていて、そのなかに倫理社会資料集があった。まだ処分してなかった。で、寝る前に1ページずつ読んでったら、1年で終わるよ。ということで、読み始めた。最初はソクラテス無知の知。なんかなんか、音読してもらって聞いてるの、楽しいわ。

その章のはじめに、ギリシア思想と現代、という文があって、
「政治的とは徒党をかたらって党略私利のために横車を挿すことだ、と心得ているこの国の政治家たちに、プラトンの思想は……」

などと、書いてあって、息子が驚いている。教科書にこんなこと書いて大丈夫なの?

驚く息子に、私が驚く。
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大丈夫だったんじゃないかなあ。資料集だし。奥付みると、昭和50年代の版。第一学習社って、なんと広島の会社。
折しも、広島選出の、某国会議員夫妻が、選挙の買収容疑で逮捕されたのである。その日ニュースはその話ばかりで、地元なので、幼稚園や小学校の運動会や、敬老会で、顔も見てるし、近所の集会所に来たときに、私、議員の靴揃えたことあるし、地元の噂も耳に入るし、それなりの関心で、買収という、あまりにも古典的な物語の顛末を眺めているんだけれども、

やっぱり、大事でしょう、ソクラテスプラトンも。

 

 

 
 
 
 

和解せよ、と

「破壊せよ、とアイラ―は言った」
中上健次の本のタイトルだ。
学生時代の終わり頃、ジャズが好きというわけでもなかったのに、アルバート・アイラ―はむしょうに好きだった。あの音は、なんていうのか、外からではなく、内から聞こえてくるみたいで、あのめちゃくちゃな音の重なり、音の並びが、もうとても快かったのである。破壊せよ、と言ってるのかどうかは知らないが。

故郷にいるとき、町を好きと思ったことはなかった。高校を終えて町を出ていくとき、お城山から町を見下ろしながら、この町が好きなのに、ずっとここにいたいのに、と友だちが言うのを聞いて、「好き」がわからなくて不思議な気がした。
それから今にいたるまで、私は、自分が住んでいる土地を、好き、と思ったことがない。

好き、というのは距離の言葉かしらと思う。故郷の町を、好き、と思えるまでには、距離も時間も必要だった。東京で過ごす時間を楽しいと思ったのは、東京を離れて、何年も過ぎたあとのこと。

18歳から10年間、広島市内に住んだ。いままた、市内に住んでいるのだが、それはだだっ広くなった街のはしっこのほうで、別の町の感じである。
市内にはあんまり近寄りたくない気持ちで暮らしている、ような気がする。

つきつめて考えれば、ある街を好きとか嫌いとかの問題ではなく、自分がそこで生きているからいやだったのだ。

ところで、電車とか汽車とか大好きな息子は、線路があれば、どこでも好きであるらしく、5月末の土曜日、私の所用にあわせて、宇品まで出て、電車の線路沿いを、写真撮りながら、えんえんと歩いた。
帰省のときに港まで電車に乗ってゆく通りだし、昔、友人たちの下宿先もあって、よく自転車走らせた道でもあるけど、どこかで地雷(記憶という地雷)ふむんじゃないかと、私は思ったりするんだけど、息子の目からは、ただ昭和レトロな通りに見えるらしく。この自販機安い、とか、緑の公衆電話とか、昔ながらの八百屋とか、喫茶店とかのたたずまいが面白いらしかった。

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たいてい電車から見るだけだから気づかなかったけど、ショッピングセンターが廃墟になっていたのは驚いた。

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もうそろそろ好きになっても、と声がした。和解せよ、とアイラ―は、言わないか。

それくらい歳月は過ぎた。故郷も東京も広島市内も、どこをどう歩こうと、私はそこで生きる人ではなく、どこへもどっても、ゴーストみたいなものだから、気楽に歩いて気楽に好きになればいい。地雷(記憶)があろうとあるまいと。

夕方、息子と別れて、友だちに会って、暗くなって帰る。家の近くの川で、蛍みつけた。もう、そんな季節だ。

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燕それから

巣がこわれてしまった軒の燕、どうするかしらと思ったら、翌日には、再建にとりかかっていた。すごいなと思って、私もそれで、鹿に荒らされた畑の再生にとりかかろうと、ネットを張りなおしたりしてたのだが。
燕の巣、日に日に大きくなり、なんだか、不思議な形になった。

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これはいいのだろうか。袋状である。出入口は右上の狭い袋の口のようなところ。え、ほんとにこれでいいんだろうか。ここで、卵産むの?孵すの?雛育てるの?どうやって?いちいちなかに潜って?
こんな巣、見たことない。引きこもるにはよさそうだけれど。
燕、私が見ているとやってこないし、いまのところ雛の気配もないし、
燕それからどうするのか、謎なんだけれども。

 

人間も引きこもっている。私、家族のほかには、向かいの森の鹿たちの顔と軒の燕の姿しか見ない、という日があたりまえにつづいている。たまに、人に会ったり、電話で話すと、なんか、どぎまぎしますね。

1日から学校はじまっている。休校の最後の週、息子のラインは、終わりそうにないたくさんの課題をめぐって、奇々怪々の攻略法がゆきかっていたが。

月曜日、いきなり7時間授業で、久しぶりに登校した息子、疲労困憊して帰ってきた。3日連続、朝学校に着くと、腹痛に襲われる、ということが続いている、らしい。……怠けてたからなあ、3か月。どれだけのんびりしても、まだのんびりしたりない感じだったもんなあ。で、学校再開して、いきなり数学テストで、これがまたよろしくない。
家に帰ると、疲れて寝ている。
文化祭、体育祭、海外修学旅行も全部中止。残念だよね。

文化祭ないと、PTAの制服のリサイクル販売もない。次のサイズのがそろそろほしいんだけど、何万円も出して新品買うのはしんどい。今着ているのも、全部リサイクル。めちゃ助かっているんだけれども。私の残念はそこ。

兄から電話。勤めていた焼き肉屋のチェーン店が、ずっと休業だったんだけれども、店の数を半分減らすことになったらしい。別の店で働くかと打診されたけど、まだ働きたい若い子もいるだろうから、ぼくはやめることにした、らしい。年金があるから生活は大丈夫よ、と言う。
どんなことも、いつか終わりは来るのだが。兄のおごりで、焼き肉食べに行くということも、もうないかもしれないね。
コロナが告げていったのは、もとにはもどれないということ。

 

燕、それからどうするんだろう。

 

 

 

 

 

 

燕これから

気づかなかったけれど、燕が帰ってきていた。何年ぶりだろう。去年は帰らなかった。一昨年も。その前は?
昔の古巣に土を足して、増築工事をしていることに、一昨日気づいた。なんかうれしい。ここでまた、卵産むのかしら、子育てするのかしらと楽しみに思ったのに、欠陥工事だったらしく、昨日、増築したところが、ほぼ全部、地面に落ちていた。
燕これからどうするだろう。再建か放棄か……。

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子どもは親のことを、ほとんど何も知らないままに、親に死なれる。と、誰かの本に書いてあった記憶だけれど、知らなくていいんじゃないの、と思ってもいた。私のことを、息子は知らなくていいと思うし。
人間の記憶なんて、半分嘘だし。思い出話なんてあんまりしたくない。身近であるほど、たぶんしたくない。記憶の嘘、記憶の塗り替え、はそこそこに混ざっているかもしれず、それはそれで、生きる知恵かもずるさかもしれず、許せる嘘ならいいのだが、許せない嘘もあるかもしれない。気づいてはいけない嘘に気づいてしまったら、苦い、と思うの。嘘を聞きたくなければ、嘘を語らせたくなければ、そこは注意深く、適切な距離がいる。

父に、記憶の嘘を感じたことはないんだけれど、父と兄と弟の関係は、いろいろと苦かったし、触れれば、いくらか恨みが滲んできそうで、父はまたそれなりに偏屈な人でもあったので、私は、なんとなく、父の話を警戒し、父にあれこれ語らせることを、避けてきたようなところがあるのだが、

聞いておけばよかったと思う話もある、と死んでから気づく。

いつだったか、一緒に城山にのぼって、仕事の話、昔の壁塗りの話を父がはじめたとき、そのこころよさに驚いたことがある。嘘がない。話が濁ってなくて、心の空間がひろびろしている。話の内容も面白かった。棕櫚の皮をはいで、蔵の壁に塗り込んだとか、三和土は海水(にがり)をまいて固めたとか。

家の施工が変化して、左官の仕事は激減し、左官も極端に少なくなり、ほとんど消えてしまいそうな職業になったけれど、13歳で親方に弟子入りして、60年ほど、父がどんな仕事をしてきたのかということは、丁寧に聞いて、記録しておけばよかった気がする。
60年ほどの間に、どれだけの壁を塗ってきたか、それはずいぶん豊かな光景だったと思うのだ。町の姿をこしらえつづけてきたこと。

燕の巣の泥壁見てたら、子どもの頃、父の仕事の現場に、よく遊びに行ったことを思い出した。竹を組んで壁をつくって、泥をこねて塗っていたような時代が、あったよねえ。

燕、どうするかな。待ってるから、もう一度、泥壁塗りにこい。

 

気づくと、車庫の上、蔓薔薇も咲いている。初夏だ。

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分散登校とがたんごとん

今週から分散登校はじまって、週に一度、学校に行くようだ。それよりもう少し前から、ネットで授業がはじまっているにはいるが。
人間のかたちを保つって、なかなかむずかしいことであるかも。だらだらがとまらない暮らしぶりだから、そろそろ学校ははじまってほしい。昨日、久しぶりに学校に行った息子は、友人たちと「宿題を早く終わらせる会」というグループラインをつくって帰ってきていた。この調子だと来月から学校はじまりそうだけど、大量の宿題が、まだ大量に残っているらしく。ようやく焦りはじめているんでしょう。早く終わったもん勝ち、ということになっているが、誰か勝つ気がありますか? 

秋の修学旅行が中止になった。オーストラリアに一週間行く予定だったけど。残念だったね。グローバルという名前の風船が、急速にしぼんでいく音を聞いてるようなこの数か月。フィリピン、去年一昨年、連れていってよかった。

東京もマニラも、すぐ行ける、と思っていたけど、こうなってみると、とおいいとおいいところですね。昔、子どものころ、四国の外って、外国みたいに思っていたけど、その感覚にひきもどされていく感じ。

 

今日、息子は朝からひとりで早起きして、遊びに行った。山の方へ、汽車の写真撮りに。写真見せてもらったら、曇り空だけど、風が気持ちよさそうで、ついていけばよかったかなとちょっと思ったけど、どれだけ歩いたかを聞いたら、ついていかなくてよかったと思った。水田に列車が映ってる。季節の移り変わりにどきどきする。

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息子が友だちから借りてきてくれた上橋菜穂子精霊の守り人」シリーズを、私はえんえんと読み継いでいるのが、楽しい。呪術師たちがいて、鳥や獣の目を通して、逃げる敵を探したり、遠くの出来事を知るのだが、私は息子の目を通して、田舎を走る汽車を見る。

ついでに、過疎地の、誰もいない駅のホームのはしっこや、線路沿いの道で、真っ黒い服を着て、1時間に1本の汽車を待って、一眼レフは買ってもらえないので、ビデオとスマホともって、ひとりで立ち尽くしてる16歳男子の姿を思い浮かべる。

いい時間だったんじゃないの、と思う。

 

 

長い春休み

気づけば、向かいの森の藤が花盛りで、はやくも初夏の気配。
鳥が鳴いてるし、鹿がやってきたりする。

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新型コロナウィルス対策で、学校の休校は延長になり、新学期の1週間ほど登校しただけで、かれこれ2か月、休み。さらに今月末まで休み。息子、昼ごろまで寝てる。

連休明けから登校の予定だったので、提出の課題がひと山あり、それを持って行かなければならなかった。ほぼほぼ済ませていたが、済んでいなかったのが、国語の課題の付録の、3週間分の学習日記と読書ノート。学習日記、毎日何かしら書いてれば、どうってことないもんを、3週間分の白紙を前にぼうっとしてる。2日分ほどを化学の話を書いたあとはどうしていいかわからないらしい。「何書こうか、春はあけぼの…」とか言うもんだから、それ書けば、と言ったら書いた。ほかに思い出すもんは? 「それなら西行、願はくは桜の下で死にたい、の歌…」というわけで、ひらめいた。そういうもんで、埋めてしまうことにした。手伝った。

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていった」っていうの、犬寄峠の菜の花畑で思い出したよ。「羽がふる 春の半島 羽がふる」っていうの、佐田岬に行った時のこと思い出すよ。みたいな話をのんびりしていたが、時間もなかったのだ、提出前夜の深夜。

ネットの検索便利。思いつく切れ端を検索すると、出てきてほしいものは出てくるのだった。芭蕉と蕪村、富沢赤黄男と西東三鬼と芝不器男、寺山修司穂村弘丸山薫宮沢賢治とヘッセ。さしあたり、私が思い出して、息子が気に入ったやつを。


課題は無事提出して、また新たな課題を抱えて帰ってくる。今日からは、授業のネット配信があるらしい。朝からの授業を昼ごろ聞いている。

小学校から不登校で、単位制の高校にすすんだ友だちのことを、息子は思い出す。すでにYくんの生き方があたりまえに思える。そんなふうで、よかったんじゃん。

息子、表情がおだやかになってきた。かなり、だらけてもきた。ときどき虚無虚無プリンになるらしい。おう。虚無虚無プリンなら私も知ってる。そいつに出会ったのは高校2年のときだった。虚無虚無プリンのことを、親と話そうとは思わなかったけど。


息子、ヘッセの「デミアン」を、私が高校生のときに読んでいた本で読んでいる。あちこち引いてある線のことは、知らないふりしとけよ、と思う。

私は、息子が友だちから借りてきてくれた「精霊の守り人」シリーズ読んでいる。楽しい。息子にも私にも、長くしあわせな春休み。ひきこもっていていいなんて。ひきこもっていることが、正しいことであるなんて。

 

さて。とはいいながら、鹿に荒らされた畑の、草刈りしなければ。いちご畑全滅だが、牡丹の花が咲いている。

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夕暮れの菜の花あかり別れかな

季節は、移り変わっているのだった。庭はツツジやサツキが咲いている。

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こないだ調べごとあって、Google マップで広島の地図見てたら、お店の名前がぷかぷか浮かんでくるなかに、私の昔のバイト先のお店がない。不安になって検索、なんと2018年7月で、閉店したとわかる。
そんなばかな。こないだ行って、忙しかったから皿洗い手伝った記憶、、、。ブログの日記を遡って探すと、私が最後に行ったのは2017年5月だった。3年前、、。その時は店閉める話はしてなかった。
でも、店の人たちの老いを感じことを思い出した。ママもマスターも70代の後半。
さらに検索すると、店を閉めたら、下の娘がいるウルグアイに行くとお客さんに話していたらしいこともわかってきた。、、ウルグアイでは訪ねてゆけない。

ほんの先日、75年前に山中高等女学校に通っていたという方とお話する機会があったのだが、原爆で焼けた女学校の跡地は、その後、大学の寮になり、女子寮は山中寮という名前で、そのボロボロの女子寮に、私も1年暮らしていた。
女子寮の先輩たちが、バイトしていて、それで私も行くことになった、人生で最初に働いた店だった。学生の頃から10年ほどは働いたと思うの。東京からもどってきたあと、妊娠するまでの1年間も働いた。

大学が消え、学生寮も消え、アパートが消えマンションが建って、あたりの風景がすっかり変わっても、その店だけはあったのだ。昭和の頃のたたずまいのまま。

バイトはそのままやめていたのに、家族でお客さんしに行っても、ひとりでも、友だちと行っても、ママもマスターも絶対お金をとってくれなかったから、かえって足を運びづらかったんだけど、こんなことなら、もっとしばしば、ただ飯食いに行けばよかった。娘たちの住所も聞いておけばよかった。この間、と思ったのが3年前なんて。自分の浦島ぶりにびっくり。

ことのついでに、寮にいた頃のことまで遡って思い出した。あの頃のことは、楽しいよりも苦い。苦すぎて、思い出したくなくて、もう別の世界の話のようなんだけど、そんななかで、あの店で働きとおしたこと、キャベツを切り続けたこと、皿を洗い続けたことだけが、別の世界とこの世界をつないでいたのだったが。


昨日、町に降りたので、行ってみた。店はマンションの1階にあったんだけど、店だけでなく、マンションごと立ち入り禁止になっていた。昭和49年に建ったのらしいけど、もう取り壊すんだろう。ということは、店はこの建物と同じときに開業したのか。ママとマスターは隣のマンションに住んでいたので、見てみると、郵便受けに転居と書いてある。近くの、たばこやさんが言うには、そのマンションも近く取り壊しの予定とか。

ドバイという名前のあの店が、70年代80年代の空気感のまま、そこにありつづけていたことも、つくづく不思議だったけれど、こうして忽然と消えていることも、また不思議でたまらない。

お礼が、言えなかったな。

 

お昼から、友だちと、御幸橋から宇品を歩く。御幸通り、昔の海岸線、昔の県営桟橋まで。少し必要があって。半ばは気分転換。天気もよくて、いいお散歩日よりだった。