1929年生まれ


   昨日は母の誕生日。といっても20年以上も前に死んでいる。
 「子供は親のことなどほとんど知らないまま見送る時を迎える」と、沢木耕太郎が『無名』という本に書いているのは、その通りだと思う。死んでゆく父のことを書いた小説だった。
 私が18歳のとき、52歳になったばかりで死んだ母について、とりわけ私が生まれる前の母については、ほとんど何も知らない。でも知りたいか、というと、そうでもないのだ。自分が知り得ただけのことで十分だという思いがする。それに、さぐったところで、他の人たちの目(のゆがみ)を通した母の姿を見るだけのことだろうから。

 進路のことは誰にも相談せずひとりで決めた。とにかく四国を出て行こうと思っていた。いま出て行かなければ一生どこにもいけなくなる、と妙に切羽詰った気持ちだった。決めた後で、広島の大学を受験するつもりだと母に言った。
 そのとき母が話してくれたのは、戦争中、挺身隊で働いていた15歳の頃、友だちに「一緒に広島に行って働こう」と誘われたことだった。広島にはたくさん工場があるのだと友だちは言った。だが両親に反対された。とりわけ父が怒って許してもらえなかった。「もし広島に行っていたら原爆にあって死んでいたかもしれない」と母は言った。
 母が行こうとして行かなかった土地に、私は行くんだなあ、と思った。

 それから1年もしないうちに母は死んだ。
 母は1929年生まれで、アンネ・フランクオードリー・ヘプバーン須賀敦子と同い年。そう気づいたのはずっとずっと後のことだが、それからは、私が好んで読んだ彼女たちの戦時下の少女時代の話と、挺身隊の腕章をつけた少女の母の写真が、一緒に思い出されてくる。