ナイトメアの物語


 毎週金曜日に更新されている毎日新聞ニュースの「こころの世紀 女という名の病」を興味深く読んでいる。執筆は心理学者・小倉千加子
 http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/onna/

 ナイトメアと名付けられた女性の、一言で言えば生き難さの物語。
 摂食障害やアルコール嗜癖や、そこまでいたらなくても、ナイトメアのような女の子を何人も知っていたな、と思う。女であることの具体的、社会的現実と、うまく折り合いがつけられないのである。
 先週は、ナイトメアが結婚しながらも、専業主婦の自分を受け入れられないでいる話だった。これからナイトメアがどんなふうに、折り合いをつけていくのか、あるいはつけられないのか、見ていきたいと思う。

 その先週の記事に、「人は、住む土地によって、生家からではなく、自分自身からさえ遠ざかってしまう。」とあった。
 ああ、その通り、と思った。はじめて故郷を離れて広島に来たときそうだった。その後、東京で暮らすようになったときもそうだった。自分を、根っこから引き抜かれて、乾いた土の上を転がる草のように感じた。根を下ろしたいのに根を下ろせる場所がない、自分自身(それはあるいは記憶の総体、そして記憶の息づく場所)から切り離されているから、どこからも栄養の補給もできない。まわりの世界とどんな絆も結べないし、心の通う交流もない。

 わたしはここにいて、ここにいるのがわたしなのだけれど、ここにはわたしがいないのである。なのにここにいるわたしを、わたしとして生きなければいけない。そして絶望的なのは、わたしがそのように感じているということは、ほかの誰にも理解されないということなのだ。

 「ナイトメアのような人間は、「具体的」なもので土地に串刺しにしておかなければ、糸の切れた凧のように飛んでいってしまう。同時に「抽象的」なものを酸素のように24時間供給しておかなければ、窒息してしまう。」とも。

 私はどんなふうに折り合いをつけたのだろう。とにかくその場所に存在しつづけることによって。10年ほど経てば、なんとか呼吸もできる感じがした。ここに引っ越してきたとき、また最初から根こぎを経験するのだろうかと、少し怖れた。
 庭に薔薇があり、ぐみの木があった。子どもの頃暮らしていた家に薔薇があり、ぐみの木があった。失ったものが、またもどってきていた。大丈夫だ、と思った。