時代の共犯者


 強度偽装の証人喚問。昨日のテレビで少しの間だけど、見ていて、唐突だけれど、もしかしたら、ナチスの高官たちも、こんなふうな人たちだったかしら、と思った。

 『記憶 ホロコーストの真実を求めて』(ラウル・ヒルバーグ著、徳留絹枝訳 柏書房)を読んだときの印象を思い出した。
 「官僚機構がそうであったように、人々は安定、特に自らの個人的な生活の平静を求めていた。加害者であっても、犠牲者であっても、傍観者であっても、それは同じだった」

 地震が起きたらきっと大量殺人事件にもなってしまうような、今度の事件もまた、なんだか蟻地獄のように地すべり的に、なされていて、個人の悪というより、文明史的な悪、のように思える。そこに悪にいたる物語があり、それぞれが、加害者として、被害者として、あるいは傍観者として、参加しているのだ。

 ヴェイユがその著書『根をもつこと』の最初に記したのは、「義務の観念は権利の観念に優先する」という言葉だった。それが転倒しているところに、兆し、育った悪と思える。

 戦後民主主義の60年に欠落していたものが何かを、考えさせてくれる事件ではある。そして私たちもまた、権利、と称して個人的な欲望を追うことに汲々とする、時代の共犯者であり、悪の温床の一部なのであろう。