ゴミ山のナイトメアたち


 もしかしたら、と思っていたけど、やっぱり。「こころの世紀 女という名の病 (心理学者・小倉千加子)」 http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/onna/ の29回目は、ナイトメアの父親が、娘に性的な関わり方をしたことを伝えている。

 フィリピンのゴミの山にあるフリースクールで、少女たちに対する隣人や肉親の性的虐待の問題に直面したことがある。私は学校の先生に頼まれて少女たちの写真を撮った。その写真をもって、ケースワーカーに相談しに行くというのである。ひとりひとりの虐待の内容を私は聞いた。「死にたい」と思った。「もういやだ」と思った。「もうこんな世界で生きていたくない」
 存在は罪悪だろうと、思いつめたことは何度もある。死ななければならないだろうか、と考えたことも。けれど、「死にたい」とふきあげるような感情がこみあげてきたのははじめてだった。

 「これは犯罪だ」とフリースクールの先生が言った。ふいに泣きそうになった。私はずっと、むしろ自分が犯罪者であるように感じていたのだ。

 あのとき、ゴミ山の女の子たちの姿を通して、ようやく私は私自身の体験を直視した。自分自身の手のなかに掴みなおした感じがした。もう脅えなくていい、とそのとき思った。手に掴んだのなら、私はそれを捨てることができる。

 手に掴むこと、そして捨て去ること、自由になること。アリス・ミラーの著作『禁じられた知』『魂の殺人』『沈黙の壁を打ち砕く』などは、その作業をずいぶん助けてくれた。

   もちろん、今となっては死ぬまで言わないつもりだ。たとえば大学を卒業したばかりの若い女の子に向かって、あなたのお父さんが、結婚する前に、顔見知りの小さな女の子に何をしたか、というようなことは。あるいは、子どもの頃ずいぶん可愛がってもらったにもかかわらず、帰省してもその親戚の家を決して訪ねないのはなぜか、というようなことは。
 つまらないことをしたものたちは、いずれ、自分自身によって、内部の法によって、あるいは神さまに裁かれればいい。たぶん、その裁きの公正を信じなければ、信仰は存在しないし、信仰心を失えば、人の世は地獄だろう。そして私はもう決してその人たちの顔を見たくない。

 ゴミの山のナイトメアたちはどうしているだろうか。何年か経つうちには、みんな学校から去っていった。家庭があんまり危険で学校にひきとられたJは、とても優秀で、けれどその素行で先生たちを悩ませていた。ある日学校を出ていったJが15歳で母親になったという噂を聞いた。たくさんの子どもたちが親の庇護もなく、ゴミの上を這うように、その日その日を生き抜いていた。

 かれこれ10年ほど前のことだけれど、「死にたい」と思ったあのときの気持ちが、いまもふいに生々しく蘇ってきたりする。それにしても子どもへの暴力が多すぎる。今まで、隠されてきていただけなのかもしれないが。