雨はあれから雪にかわったらしく、ぼたぼた音がしていたのは、みぞれのようだったかもしれない。朝にはたちまち融けたけれど。「三月こな雪ふりしきる」と1日頭のなかでリフレインしていた。気になって探した。中学生の頃に読んだ詩集だった。
三月 (室生犀星)
うすければ青くぎんいろに
さくらも紅く咲くなみに
三月こな雪ふりしきる
雪かきよせて手にとれば
手にとるひまに消えにけり
なにをかなしと言ひうるものぞ
君が朱なるてぶくろに
雪もうすらにとけゆけり
こういう詩、昭和のはじめ頃までの詩を読んでいると、故郷で10代だった頃の気分にひきもどされる。教室のベランダの手すりの雪が陽にとけていくのを、ぼんやりと見ていた。中庭の紅梅が雪のなかに咲いていた。
後に、現代詩というものを読むようになったとき、それまで親しんでいた戦前の詩と全然違うので面食らった。そこにある断絶と痛みにとまどった。なんだかむずかしいと思いながら、やがて、その痛みにひきよせられていったのだが、もしも戦争がなかったら、現代詩の景色はどんなふうだったろう。
たぶん、故郷を離れた18歳のとき、もう帰る家はないと思ったとき、私の内部に最初の小さな断絶が生まれた。そして今にいたるまで、帰れそうで帰れないふるさとだ。