「海賊たちの歌」

 チェーツキー、と子どもが呼んでいるCDがある。私の机の上の小さいプレーヤーは、いつもそのチェーツキーが入っている。他のCDをいれていても、いつのまにか子どもがチェーツキーにしている。ブラート・オクジャワ『紙の兵隊』。オクジャワはソ連時代の詩人。抵抗詩人といってもいいのだろう。子どもは一番最初の歌がお気に入りで、歌の途中で、「チェーツキー!」と叫ぶのだが、それはともかく、いい詩である。
 
「海賊たちの歌」
 
嵐の前の夜、マストには聖エルマの蝋燭が燃えている、
そしてぼくらの心を過ぎ去ったすべての年年にわたって暖めてくれる
ぼくらがポートランドに戻ったら、ぼくらは羊のようにおとなしくなる
だが、ポートランドへ戻ることは決してないだろう。
 
いいさ、ポートランドへ戻ることがないならば、黒い帆に運ばれるだけだ、
ジャマイカのロム酒が甘ければいい、他のことはつまらない
ぼくらがポートランドへ戻ったら、誓って言うが、ぼくはすべてを告白する、
だが、ポートランドへ戻ることは決してないだろう。
 
いいさ、ポートランドへもどることがないならば、商人が恐怖のあまり死ぬだろう。
神だって、悪魔だって、彼が自分の船を救う助けはしてくれない
ぼくらがポートランドへ戻ったら、誓って言うが、ぼくはすすんで絞首台へ行く、
だが、ポートランドへ戻ることは決してないだろう。
 
いいさ、ポートランドへもどることがないならば、兄弟のように黄金を分け合おう、
他人の金なんて苦労なしには手に入らないのだから
ぼくらがポートランドへ戻ったら、祖国が抱きしめるように迎えてくれる、
だが、ポートランドへ戻ることは決してないだろう。
 
 「ピアノひくの」と子どもは言い出し、ピアノなんてうちにはない、音楽教室の無料の体験教室に遊びに行った。楽しかったらしい。「またいくの」と言っている。うーん、このあとは無料ではないんだよ。幼稚園に行かないから、かわりに行くかなあ。すこしは人になれたほうがいいよなあ。この子は人の話をきかないね、と最近しきりに言われるしなあ。「とうきょうモノレールのるの」とも言っている。それは無理。大きくなったらひとりで乗りに行きなさい。
 『だれも知らない』というタイトルだっけか、映画の最後のほうの場面に出てくるのは、東京モノレールではなかったろうか。あの場面はとても印象的だった。
 
 夕方、街へ降りて、帰りはすっかり遅くなる。遅くなりついで、夜の駅で電車を見る。貨物列車の通過は長い。夜の電車の光の箱が走っていく。どこかへ、出ていきたいと、出て行かなければ息ができないと、思った日もあったのだ。きみもいつか、光の箱に乗って出ていくだろう。それまではしょうがないので、一緒におうちに帰りましょう。