歌 打つ 空虚(うつほ)

詩誌「びーぐる」創刊号を読んでいる。
きれいな表紙だ。

実をいうと、詩を読むのは、短歌を読むのと同じくらい苦手だったりして、詩論や歌論を書ける人は、まったくすごいと思う。で、読みやすそうなのから読む。なつかしい小説家の名前がある。中上健次論。

あの文章の快楽は、詩であり歌であるからか、と思った。

「引きつけてやまない言葉の魅惑」
「日本語本来の闇と光の磁力」

──「だから歌の原型というのは、あるものを訴えるということ、訴えるということは要するに外から来てしまったものが内側にこもり、内側が壊れかかっているから外に吐き出すと。つまり訴える相手が、自然でも人間でも石でも何でもいい。そういう行為が打つという行為であって、同時に歌でもある。」中上にとって「外から来てしまったものが内側にこも」ったというのは、「空虚」=「うつほ」である。作家の内部に決定的に「うつほ」をひらいたのは、十三歳時の兄の自死である。(略)この「うつほ」を打ち、響かせ、歌にしなければ自分も生きていけないし、死者も報われない。──
「夢の蓮の花の力──詩人としての中上健次」河津聖恵

路地そのものが大きな「うつほ」だったろうなあ、と思った。



短歌を書くというのは、喋ることよりも聞くことに似ている。
吐き出しているつもりが、じつは呑み込まれている。
と思うこの頃。

書いているのは、これは、短歌か?
といぶかしみつつ。

呑み込まれてしまおう。