空蝉の薄き地獄に

「北冬」NO、011、の特集は山中智恵子の居る所。
山中智恵子の短歌は好きなので、難しくてわからんし、なぜ好きかもわからないが好きなので、読んでいたら、
黒岩康「〈蝉〉を見に行く 山中短歌の民衆像」という一文があって、その内容に驚いた。
よく出てくる昆虫の「蝉」が「賤民」の語尾ン音の脱音形であるとか、「鉄火(セビ)」(タタラ製鉄)に通じるとか、つまり、「山中短歌とこの賤民(被差別)は骨絡みであり」という内容。ああ、それで天皇制の問題も出てくるのか、と思った次第。

中上健次への挽歌がひかれている。

 脳(なづき)冥し脳冥しと鳴きしきるこの狂蝉か死すとも健次
 健次死すこの口惜しさを狂ひ鳴く熊野の蝉と思へど遠し
 死ぬなかれ中上健次死ぬなかれ狂蝉をもてる女ぞわれも

そういえば、たぶんもう20年ほど前、「文学界」だったと思うけど、中上健次岡野弘彦と、天皇制と短歌について対談したのを読んで、その内容がわけわからなくて、面食らった記憶がある。それは別に短歌に関心があったわけでなく、中上健次への関心で読んだんだけれど。

その対談について、高杉一郎が、激怒している文章を、最近読んで、久しぶりに思い出したんだけれども。シベリア抑留を経験した左翼の文学者としては当然の反応だろうけれど、そのような天皇礼賛が戦前の軍事国家の論理をつくっていったのではないか、という実存を賭けた怒りだった。すっごい怒りかただった。

中上健次が問うているのはたぶん、言葉の宗教性みたいなことだろうと私は思って、でもそれが、天皇制とか短歌とかいう「制度」の問題とどう関わってくるのかが、さっぱり理解できなくて困惑したんだけど、なんせ20年も前のことで、記憶もあやふや。

あれは何だったんだろうなあ。

まあいいや。
何を言いたいかというと、山中智恵子と中上健次のつながりから、私は、久しぶりに「オリュウノオバ」を思い出して、昔、中上健次の小説の、オリュウノオバが出てくる場面が大好きで、そうよ、山中智恵子の短歌は、読むと、オリュウノオバになついていきたいような、なんかそういう気持ちになるんだわ、と思った。


 水甕の空ひびきあふ夏つばめものにつかざるこゑごゑやさし
 黙ふかく夕目にみえて空蝉の薄き地獄にわが帰るべし
 行きて負うかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
 さくらばな陽に泡立つを守りゐるこの冥き遊星に人と生れて
 雨師として祀り棄てなむ葬り日のすめらみことに氷雨ふりたり

                       山中智恵子