「わたしたちが孤児だったころ」

わたしたちが孤児だったころカズオ・イシグロ著(早川書房)読了。読み終えて目の奥がつんつんする。いい小説。

あとがきに、「あなたは孤児になるために、この物語を読むんだよ」(古川日出男)とある。ほんとうにそのような小説。

1910年代の上海。主人公は上海の租界で育った。父はアヘン貿易に関わる会社にいたらしい。母は、アヘン貿易に反対する運動をしていた。隣の家には日本人一家がおり、アキラという少年と親しかった。だがある日、父が失踪する。数ヶ月後、母も失踪し、孤児になった少年はイギリスに帰国した。
成長して探偵になった主人公は、失踪した父母の謎を追って上海に戻る。すでに戦場と化した上海で、彼は傷ついた日本兵に出会う。幼馴染のアキラだった。そのときのアキラのセリフ。
「おれの息子が。世界はいいところではないとわかったとき。おれは……」「あの子と一緒にいてやりたい。あの子を助けるために。あの子がそうわかったとき」

世界は壊れる。たぶん、戦争が起きても起こらなくても。親たちが失踪してもしなくても。親たちが生きていても死んでいても。子どもは必ず孤児になる。
親は理想の親ではなく、世界はいいところではない、と、わかるときがきてしまう。わたしたちは必ず孤児になる。

壊れてしまった世界から生きはじめなければならないわけだ。廃墟から。それでも、「孤児だった」と過去形なのは、母(とその愛情)を発見するからなのだろう。

世界はいいところではないとわかったとき(きっと人生で何度かは、したたかに思い知らされる)、傍らにいてくれた人たちのことは、忘れ難い。

新聞に、中国残留孤児の肉親捜しの帰国の、小さな記事を見る。わずかに3人。60代後半、70代、という年齢に驚く。戦後60数年たっているから当然のことなんだが。その年齢になってなお、孤児でありつづけるということ。


朝、雨。のち曇り。向いの森の紅葉が、いっそう深くなっている。