如実知見

如実知見。
如実に知見す。
出典は法華経だから、如実知見するのは仏である。仏はものごとを正しく見て知る。
凡愚は、如実知見しない。自分の見たいようにしか見ないし、境涯に応じてしか理解しない。
にも関わらず、自分のものの見方は正しいと、それぞれ思っているので面倒なのだ。正しいか正しくないか、そんなのわからんって。
わかるのは、如実知見なんかしとらん、っていうことだけよ。

山口で、夜みんなが寝たあと、義母さんと3時間もおしゃべりするはめになったのは、私が腰痛で眠れなかったからです。
義母さんはいい人だし、やさしいし、ありがたいのだけれど、義母さんのおしゃべりがはじまると、私はたちまち逃げたくなる。たいてい10分くらいで逃げるんだけど。
私相手に喋りだすと、夫と息子についての愚痴が、とまらんわけです。

義母さんにしてみれば、ひとのことを考えない自分勝手な夫と、親の言うことを聞かずに人生失敗している息子(と義母さんには見える)は、理解できないし、悩みの種なのだ。
孫がアスペルガー症候群自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)と診断されて、義父はけっして認めようとしないが、義母があっさり認めたのは、夫や息子もアスペルガーだと思ったほうが、これまでの苦しみが合理的に理解できるからである、と思う。それはそれでまた、孫の将来、という新たな心配の種になってもいるんだけれど。
それで義母さん、嫁も同じアスペルガーだと思うのかどうか知らないが「あの子はどうしてああなんかね。あの子はどうするつもりなんかね」としきりに私に聞くんである。そんなん聞かれてもわからんって。他人の理由なんてわからんよ。あるまま受け入れるか見捨てるか、どっちかよ、と思うんだけど、義母さんの話は、答えの出ないところをぐるぐるぐるぐるまわる。

「親の言うことを聞かんから悪い」というのだが、親の言うことなんか私だってきかなかったので、ああそうですねえ、とも言えん。
「困ったときにも相談にも来んかった」と言うが、困った時に親に相談しよう、などという発想は、私だってまったくなかった。私から見れば、あなたの息子は、理解もされず、経済的にも困窮してるから所詮侮られるのも承知の上で、よく親と話しているほうである。

困ったときに親に相談して、あれこれ説教されたり、心配されたり、そんなのはうっとうしくてかなわん。
と私は思うもん。

「学生のころもお金がなかったろうに、言ってこん。食べるものもきちんとしてなかったから、体を壊すことになったのかもしれん」
私はもう、あっけにとられて聞いているしかないのだ。お金がないって、仕送り額は私なんかから見たら、夢のようなことだし、一日3回食べて、ひもじくて動けないというわけでもなかったのだし。
「学生のころ、私は金がないので、パンの耳のカビ臭くなったやつを、ひたすらかじって餓えをしのいだりしてたけど、それに比べたら、ずっとまともないい暮らしをしてたと思いますよ」と思わず喋ったら、今度は義母さんがあっけにとられていた。
しまったな、口がすべったな、と思うけど、義母さん、かまわずしゃべりつづけてくれて、ほっとする。

たぶん、夫や息子への不信が苦しいんだろうなあ、と思う。その不信が何に由来するのか、どうしたら取り払えるのか、私はわからん。せいぜい話題を変えようと努力はしてみるが、またすぐにもとのテーマに戻る。

経済的に困るということのなかった義母さんからしてみると、明日をもしれぬわたしたちの暮らしぶりや、アスペルガーとしてはごくあたりまえの、でも義母さんから見ると、とてもへんな考え方や行動をする息子夫婦を親にもって、そのなかでかわいい孫が育っていることは、不安で心配で不憫で、たまらないことらしいのだ。
そうか、もしかしたら、義母さんの終わりのない愚痴は、母親の愛情でもあるのかしら、と深夜1時くらいになって、ようやく気がつく私も相当に鈍いけど。

もしも、私の母が生きていたら、同じように心配したのかしら、とふと思う。兄や私や弟のことを心配しだしたら、いのちなんか100個あったって足りないと思うが、母が生きてこのように心配しつづけるのかと思ったら、母ははやく死んで正解だった、と思ってしまった。

そういえば母が死んだとき、私は18歳だったけど、これで母は、私たち子どもの母であることから解放されたのだと、それは母のためにはいいことだろうと思ったことを思い出した。悲しいと思うのは、遺されたもののエゴイズムにしかすぎないし、子どもたちの不始末の後始末に追われている母を見ていることは、つらかった。
(父は母のようには心配しないから、生きててもらってもこちらも気楽である)

もし母が生きていたら、心配かけまいと思って何も言わなかったら心配させるし、ありのまま話したらやはり心配させる。そのようにしか生きていない。そうして、母に心配かけている、ということは、私自身のストレスになるだろう。

いま私が平気で受け入れていること、たとえば兄や弟の人生のぐちゃぐちゃも、もしもそれを母が心配すると考えたら、それはたちまちゆるしがたいことになる。

もしも母が生きていてくれるのなら、子どもたちの人生なんか、すっきり見限って、だれかほかの人たちのことを心配してくれていたほうがずっといい。

そんなことを考えながら、義母さんの話を、とちゅうからはもう聞き流していたが、さすがにもう、いいかげん眠くなって、
「だからお義母さん、心配しても心配しなくても、事態は変わらないんだから、心配しなくていいんですよ」
と、私はかなり本気で言ったのだが、冗談のように笑われてしまった。