路地

取材の電話で、タイトルのことを、そういえば訊かれたのだった。
「わたしたちの路地、とは?」だったか、「タイトルの路地とは?」だったか。つまり何を訊かれたか、わかっていないのだ。

テーマが路地であることは、自分ではあまりに自明のことで、考えてもみなかった。
人が暮らすのは大通りではなくて路地で、無名の人々を名前のある存在として生かすのが路地で、だから、人間性が生きのびていけるには、路地をつなぐほかにないのだ、とか、そういうことが言えれば、かっこよかったかな、と、まあそんなことは、あとから思うもので、そんなことを考えて書いたりは、もちろんしていない。

今日の朝日新聞の夕刊(夕刊のない地域は明日の朝刊)に『christmas mountain わたしたちの路地』のこと、紹介してもらえるそうです。(方面版かな。わかんないけど。)どこかで新聞調達しなきゃ。

現代詩のひとが、短歌への偏見が吹き飛んだ、と言ってくれたのは、うれしかった。(でも、短歌のひとには、こんなものを短歌と思ってもらっては困ると、言われたりするかもしれない。)

あの「路地」はヴェイユの「工場」にもつながっているよね、と言われたのもうれしかった。(それも考えてなかったけど)

河津さんが『詩のテラス』に冒頭部分を紹介してくれています。
http://maruta.be/terrace_of_poem




ヴェイユの哲学の現代的な展開が、とても必要だと思う。

個人的に気になるのは、まず、ヴェイユイスラエル
それから、ヴェイユの脱創造の思想と仏教思想との親和性、あるいは、宗教間の差異を乗り越えさせる宗教的なるもの、へのアプローチ。
それから、私にとっても切実だったのだけれど、貧困への対峙の仕方。
ゴミの山で、学校の支援のことについても、ヴェイユの言葉にしがみつくようにして、すすめてきたと思う。ああいうところでは、たくさんのうわすべりする善意をみるんだけれど、善意だから善とは限らないことも、善意が善であるために必要な注意深さについても。

学問的、ではなくて、経験的な言葉が欲しい。ヴェイユが、教条的な信仰でなく、経験的な信仰を求めたように。




数日前かな、夕方こたつでうたたねしていたら(ああ、至福の時間)、耳もとで「ママ、えのぐのじゅんびができました」という何やらうれしそうな声。
ちびさん、楽しそうに、水をくんで、チューブを出して、している。ああ、好きにさせておいたら、きっととんでもないことになる。ので起きた。
ふさいでもふさいでも穴はあく。その数日前に、襖の穴をふさぐのに、障子紙に、あれこれ使ってスタンプさせて、それを貼ったのだが、それをまたやりたかったらしい。ミニカーに絵の具ぬりまくって、ぺったん。途中からはボディペンティングだった。