鬼ヶ城

河津聖恵さんの詩集『新鹿(あたしか)』を読んだ。
紀州・熊野の人や風景との魂の交感を昇華した」と帯にはある。

雑誌で立ち読みした「新鹿(二)」が収録されていて、まず最初にその言葉を探した。
「──生きよ
   生きはじめた以上、生き尽くせ」

聞きたかった言葉だ。
あのとき本屋でしばらく立ちつくした。こんなことを書く人がいるのだ。

この詩を読んでいなかったら、路地のコラボは生まれなかった。コラボのなかで「生きはじめた以上、生き尽くせ」というフレーズを再び響かせてくれたとき、このフレーズを聞かせてもらえるのなら(何度だって聞きたい)私はどんな下手な短歌だって短歌でなくったって書く、と思った。

ほんとにそれはずっと聞きたかった言葉。

詩、というのはそういうものだと思っていた。
タゴールミストラルは、そういうことを言ってくれているのだ。
この世で死にそうになっている自分を、どういう力でか、生きる方向へ、幸福でも不幸でも何でもよいから生き尽くすのだと、はげましてくれる力があるのが、詩、だと思っていた。

そうでなければ、詩人の中途半端な死生観につきあわされるのはだるいのだ。現実の私が死にそうになっているときに。

思えば。

死にそうだった私に、「生き尽くせ」と語ってくれたのは、ゴミを拾う人たちだったのだろう。だから、あの場所から離れられなかったのだ。ゴミの上にしゃがんで、ゴミ拾う大人たち子どもたちを、ずっと見ていた。幸福な場所とは言い難い、断絶されたものたちの吹きだまりであったけれど、ぼろぼろずたずたの景色だけれど、でもそこには、「生き尽くせ」という響きがあった。「生き尽くせ、拾いつくせ」

そのゴミの山の学校に、お金がいるならなんとかする、私にないから、誰でもの、知らない人のポケットだって叩く、と思った。

鬼ヶ城」という詩があって、これはもうタイトル見ただけで、私は泣く。私の故郷の、そのあたりでは一番高い山が「鬼ヶ城」で、私は故郷を離れるまで、18年、朝に夕に、その山を見て生きていた。

進学して故郷を離れて、それは家出しても出ていかなければ息ができなくなりそうだったのだけれど、広島で暮らして、それから東京に出て、何が理不尽と思ったかって、なぜ、あの山を、「鬼ヶ城」を見て、生きることができないのだろうと、いうことだった。

珍しい名前ではないのだ。地図を眺めていれば、いろんなところに「鬼ヶ城」がある。

 ふるさとに鬼ヶ城山ありわが知らぬ土地にもありて鬼、棲んでいるか

と、何年か前に書いた。
そうなんだ、紀州にもあったんだ。作家のゆかりの場所だったんだ。

東京に行って、山が見えないと気づいたとき、信じられない気持だった。山も見えないところで、どうやって人が生きていけるのか、山がなければ方向もわからない、裏山に隠れ家をつくることもできなくて、どうやって子どもは育つことができるのか。ものすごく不安だった。
八王子に引っ越してから、しばらく暮らせたのは、かろうじて山が見えたから。夕方、駅の窓から西のほうに高尾山が見えると、それはそれで、ささやかななぐさめだった。

田舎に帰省するのはたいてい春のこの時期だった。ひとりで山や沼や土手を散歩する。草や木や土や光が、体のなかでわんわんと鳴る。無音なのににぎやかで、ひとりなのに力強くて、楽しい。強い日差し。草に体をこすりつけて山をのぼる。沼をわたる鶯の声や、あめんぼ。ぷかぷか浮かぶ菱の実で笛をつくった。菱の実は鬼の顔に見えて、鬼笛と呼んでいたんだけど、それは他の人たちもそうだろうか。

そんなこんな思い出すと、どうしていま鬼ヶ城を見ていられないのか、どうして何年も帰省できずにいるのか、人の世のめんどくささが、めんどくさいわ。

『新鹿』

断絶や衰弱以前の(あるいはそんなこともなんでもなくしてしまうような)あるべき故郷からの、現実の故郷よりもっと強い日の光や影や、そういうところからの血のあたたかさを、伝えてくれるようで、これは幸福な詩集だ。私をしあわせにしてくれる。