無差別な友情

目がさめたら、一面の雪景色。

昨日の夜から急に調子が悪くなり、頭痛、肩こり、背中痛、腰痛、吐き気、足痛、涙がぽろぽろ出てきて、どうしたんだこれは。
大晦日なのに、お正月くるのに、どうしよう、と思ったが、雪を見て納得した。ああ、この寒さのせいだ。
生まれたのは豪雪の冬だが、南国産である。寒さに弱い。

雪、雪、雪、雪、雪。

高杉一郎「極光のかげに シベリア俘虜記」。
収容所で、「力」がどんなふうに人の心を変形させるか、とか、スターリニズムファシズムに似ていることとか、そういうことも書かれているが、何より心を打つのは、民族や言葉や年齢の差異を超えた、友情の存在だ。その人たちといると、自分が俘虜であることを忘れた。

「この無差別な友情は、いったいどこからくるのだろう?」

ロシア文学ヒューマニズムの伝統や、エスペラント語創始者ザメンホフの精神のことなどに、著者は思いを馳せるのだが。

「無差別な友情」という言葉に、思わず泣きそうになった。

ゴミの山で私を抱きしめてくれた女の人たちのことを、思い出してしまった。抱きしめてくれたあとで「ごめんよ、私の手はこんなに汚い」と笑ったヴァージニア。来てくれてありがとう、ほら、あがって、ここにすわって、といつも気持ちよく家にあげてくれた、死んだマリアのお母さん。それからたくさんの子どもたち。
数日居候しただけなのに、「本当のともだち」と手紙に書いてくれて、今度いつ来るのか、と私を呼びもどしてくれたレティ先生。
あのころ、日本でほとんど死にそうだった私を、蘇生させてくれたのは、たしかにそのような「無差別な友情」だった。
誰かと一緒にいて楽しいという気持ち、あなたがあなたのままで、私が私のままで喜びであるという気持ちを、呼びさましてくれた。

一緒に働いていたロシア人の囚人の言葉がまた、トルストイドストエフスキーの小説に出てきそう。

「いけないのはむやみに威張ることさ。(略)年がら年中、眉根を寄せて、しかめっ面をしてさ。威厳なんてものは、嘘でつくりあげた服のようなもんだ。そうは思わんかい?
 俺たちは先ずなによりも人間であればいいわけだ。たとえば、君と俺といまこうやって向いあって坐っているが、これはつまり、ひとりの人間ともうひとりの人間が向いあっているんで、ロシアの囚人と日本の俘虜が向きあっているんじゃない。そんな区別は、馬鹿や狂人のつくったうわ言さ。」

もうその言葉だけ抱きしめて生きていこう。
「無差別な友情」。

さて、大晦日。
楽しい一年でした。
みなさん、ありがとう。