カムパネルラ忌

遺書ならば、30年前に受け取っていた。

「私たちは、どちらかが先に死ななければなりません。そのことをかなしまないでください。そしてとり残されるはずのうたたちのことを、まるで朝起きてどうしても思い出せない夢のように、ときどき気にかけることにしましょう。生まれたものは、淋しがる性質を持っているからです。……」(1991.6.11)

 

という手紙を30年後の6月に見つけたときは震えた。まだメール届くかしら、まだ大丈夫かしら、確認したいこと、読んでもらいたい文章、間に合うかしらと思いながら、返事がないことも覚悟しながらメールして、おそらくは壮絶な癌の痛みとの闘いのあいまに、短い返事が返ってくると、ときにそれが、空メールでも、ああ生きてるとほっとしていた頃に、見つけた。

なんだか、すとん、と心が落ち着いた。遺書はもらっていたのだ。

それにしても30年前。……用意周到すぎる、と思わず笑えた。

最初の手紙が前年の秋だった。それから一度会ったことがあるだけ、短歌やら詩やら私はさっぱりわかんなかったし、話もまず嚙み合ってなかったと思うのに、言いますか、どちらかが先に死ななければなりませんって。若気の至りかもだけど。

そしてそれを、その30年後に、亡くなる1か月前に、見つけますか、私も。

 

ぼくがいなければうまくいく。
そういうことを言っていた。そういう短歌も書いていたけど、消してしまった。
私はその短歌を好きだったから、命乞いしたんだけど、消されちゃったな。

犬が駆け回るぼくさえいなければ……世界はうまくまわっていくよ、っていうような。

呼ばれても、返事を待たれているとは思わなかった。呼ぶ声で、ああ、いるんだな、と思ったらそれでよかった。そういうところが妙に似ていたから、いつでも見失いそうではあったのに。

 

再び、見失わずにすんでよかった。

 

両吟集も歌集も詩集も出すから。あとは野樹がやれるから、と私は言った。
言わないとしょうがない。大丈夫って。もういいよって。だって死神が待ってた。
やれるかな。

死神にも助けてもらいたい。あんたのせいで、私はさびしい。

それでもたぶん、十分すぎるほど遊んでもらった。

 

詩を書くときは、伊丹イタリアの筆名を使っていた。でも、もしも詩集を出すのなら、本名がいいなと言っていた。最後に確認したのはそのこと。詩集のタイトルは決まってない。時間がもうなかった。

 

30年近く前、一番最初に読ませてもらった詩がこの詩だ。めまいする。

 

カムパネルラ忌         伊丹イタリア

 

王国を見にいくと言い残して
もどらない彼のことを
パンを食べているとき忘れていた
食べるときは忘れているのだ
たえまなく浸食される時間の痛みの中で
わたしも一筋の傷口である
黒パンには塩分が含まれており
沁みる
王国はどうだったの?
と、もどって来たら訊いてみよう

  だれもいなかったよ
  王もいない
  どの部屋も空っぽ
  ただ玉座
  四季の収穫だけが飾られていた

黒パンには
両眼から落下する石と同じ成分が含まれており
噛むと顎がふるえるのをとめられない
海の方角にあるはずの
だれもいない国を想い描いた

旅路で
もし死んでいなければ
彼は
カムパネルラと同じ年だ
いいえ
もし生まれていたらの話だ
そうしたことも
食べるときは忘れている


もう一度
始発から数えてみよう
わたしがいることと
彼がいないことの闇をつないでいる
駅の数を