「8・6」と「3・11」

奈良の歌人の淺川肇さんから歌誌「無人島」を送っていただいた。第5号に広島の切明千枝子さんのエッセイが載っている。 (去年、朝鮮学校での朗読会のときにお会いした。)
「8・6」と「3・11」。半年前、テレビで津波ののちの街の様子を見た子どもが、「原爆がおちたあとみたいだね」って言ったのを、思い出した。
少し長いけど、書き写します。

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エッセイ「8・6」と「3・11」 切明千枝子

 被爆屍体井桁に組みて山なすを焼きたる川辺に又夏が来る

 六十六年前の八月、私は十五歳の高等女学校四年生。学徒動員で市内の煙草工場で働いていた。「月月火水木金金」が合言葉で、夏休みは廃止、土・日もフルタイムの重労働だった。七月末に足を痛めた私は、作業中に二時間の休みをもらい街中の外科病院へ通っていた。六日の朝も朝礼(東方遥拝という言葉があり、毎日、遥か東京の天皇陛下を最敬礼で拝むのだった)を終えて、私だけ工場を出て病院へ向かった。比治山橋の東詰めまで来て、余りの暑さに少し休んでから橋を渡ろうと、傍らの木造倉庫の陰に佇んだ。と、その時、目も眩む閃光、そして爆風。地面に叩きつけられ気を失った。ふっと気が付くと体の上に重い物がのしかかり身動きができない。辺りはしんと静まり返り「助けて下さい」と叫んだが、誰も来てはくれない。必死で体を動かし、少しずつ隙間を作って外へ這い出る。ところが、先程までカンカン照りだった太陽は姿を消し、あたりは真っ暗闇。何も見えぬ。

 暫くぼんやり突っ立っていると、やがて夜明けのように少しずつ明るくなり、周囲が見えはじめて驚いた。たった今歩いて来た道の両側の家々はぺしゃんこに潰れている。渡る筈の橋の向こうは紅蓮の炎、火の海。橋の上を大勢の人が悲鳴をあげながら逃げてくる。
 その人々の衣服は焼け焦げ、頭髪は逆立ち、血を流し…熱さに耐えかねてか次々に橋の上から川へ飛び込む人もいる。目の前を、燃えている制服の炎を消そうともしないで、男子中学生たちが燃え乍ら影絵のように通り過ぎてゆく。
 いったい何が起きたのかさっぱり分からぬままに、広島は一瞬にして焦熱地獄となっていた。

 轟々と広島のもゆる音がする悲鳴が聞こゆ呻きが聞こゆ

 阿鼻叫喚とはこのことか。頭の中が真っ白になり、どうしたらよいのか分からなくなった私は、やがて「煙草工場へ帰らねば」と思い至る。帰れば級友もいる、先生もいると。
 しかし、たった十五分ほどしか歩いていない筈の道を戻るのに三・四十分もかかってしまう。崩れた家屋の塀や屋根を乗り越え、倒れた電柱をまたぎ、象のようにふくれあがって横転し、苦しみもがいている荷車を引いていた馬を避けて通らねばならなかったので。

 工場へ帰り着いた時には、級友も先生も、どこかへ避難したあと。又々どうしようと、茫然自失。そこへ工場の中から級友のNさんがよろよろと出てきて「助けて」と縋ってくる。

 見ると額から血が吹いている。天井からの落下物が額に当たり気絶していたらしい。止血する布はないかと辺りを見回した私は、自分の肩にかけている救急鞄に気付く。戦争中には外出時、救急品を入れた鞄と、綿入れの防空頭巾を丸めて紐で括った物を肩から十文字に掛けて腰にぶらさげて歩く規則があった。防空頭巾は既に紐が切れて紛失していたが救急鞄は残っていた。この鞄は母が大切にしていた帯をほどいて、その芯布で縫ってくれ、十センチ巾の肩紐に何本もミシンステッチが入っていたので建物の下敷きから抜け出す時も紐が切れなかったのだ。

 佐賀錦の帯の芯もて救急鞄縫ひくれし母三十五歳
 再びは結ぶことなしと戦の日惜しげもなく帯ほどく母息のみて見つ

 鞄の中から三角巾を取り出し、Nさんの額をしばって止血した。と、彼女が「あんたもケガしてる」と言う。私は全く気付かなかったのだが、下敷きになった時に建物の窓ガラスが粉々に割れ、頭にいっぱい刺さっていたのだ。口の中にしょっぱいものが流れ込むので、汗だと思っていたのだが、実は頭の傷からの出血だったらしい。今度はNさんがガラスを抜いて、赤チンを付けてくれた。その内に工場の倉庫に火が移ってきたという叫び声がした。ふっと南の方に目をやると、宇品港のあたりには火の手が見えない。私は、出血多量で目眩がして歩けないというNさんを背負うようにして、港近くにある私達の学校へ辿りつく。学校は倒壊寸前ながら焼けておらず、既に先生方と何人かの級友が戻っていた。

 その内に建物疎開作業に動員されていた下級生たちが帰ってくる。町の中心部で作業していた下級生たちは全員大火傷。衣服は焼けて裸同然。顔は火ぶくれし、頭髪はチリチリに焦げて逆立ち、火傷ではがれた皮膚が昆布や若布を泥水に浸したような状態になってぶらさがっている。
 実は私には同じ学校の二年生に妹がいたので、二年生全員の顔も名前も知っていたのに、誰が誰か分からぬほど変わり果てていた。もう私のケガなどケガの中にも入らない。

 薬もない、医者もいない。家庭科実習室から探し出した使い古しの食用油を塗るのが唯一の治療。全身火傷の下級生達は次々に死んでゆく。真夏のこと故、遺体を放置できない。学校農園の片隅で、崩れた校舎の窓枠やハメ板を薪代わりに、私はこの手で下級生達を焼いたのだ。栄養不足の当時の女学生は細くて小さかった。それでも骨にするのは大変だったし、辛かった。しかし学校まで辿りつけた生徒たちはまだ幸いだった。いまだに何処で亡くなったのか不明のままの生徒もいるのだから。

 3・11の東日本大震災。私にはこれが8・6の原爆被災と重なる。一瞬に廃墟となる街々。火と水の違いこそあれ、あっという間に万を越す命が失われ、その上放射能まで撒き散らされて、辛うじて助かった人々の将来まで脅かす。被曝して棄てられ死んでゆく福島の牛たちと、被爆して道端で死んでいった馬の姿がオーバーラップする。
 
 又、津波で消えたわが子を今も探し続けている被災地のお父さんの姿は8・6の私の父の姿と完全にダブる。

 帰り来ぬ妹を探し広島の炎中経巡りし父よありがとう
 妹の名を叫(おら)びつつ炎の中を探し回りし父原爆症を病む
 ボソボソと被爆を語る父の眸の夜の海より昏(くら)かりしこと
 病棟の北窓に光る冬北斗 白血球失ひし父は死にたり

 私は今、甲状腺を病んでいる。少女期の被爆が原因と医師は言う。そして、私が一生飲み続けねばならぬ薬の製造が今回の大震災で止まっている。「8・6」と「3・11」はここでも繋がっていた。ああ、もう原子力はいらない!

                     「無人島」第五号より