「長詩 リトルボーイ」

『長詩 リトルボーイ』高炯烈(コヒョンヨル)著 韓成禮訳 コールサック社
読んでいる。
1995年にソウルで刊行された7900行を超える長編詩。日韓被爆者の歴史(生活史)をたどりながら、原爆投下までの日本と朝鮮、アジア、世界を描く。
日本の姿がよく見える。ああこんな国なら、空も見捨てて飛び去ってしまうだろう。宗主国も植民地もなしくずし、泥沼へ転落してゆく。泥沼のなかに生活がある。
苦労した。ほんとによう苦労した。苦労もひとつふたつなら覚えてもおれようが、うちら苦労のしどおしじゃから、覚えておれん。
顔も全部焼けて、首のまわりだけ、ちょこっと、首飾りみたいに焼けのこっとった。
昔聞いた(二十歳の頃だから、もうとっても昔だ)、韓国人被爆者のお母さんたちの声が、ふっと、耳にもどってきたりする。

以前、私は思っていたんだった。私が知っていることなど、きっと誰もが知っていることだし、私が聞いた話もきっとみんな知っていることだし、だから、私が覚えていなければいけない、ということでもない。
私はむしろ聞いてはいけない話、を聞いたような後ろめたさで、(だって、どんな苦労か私は絶対わからない。平和のためとか言いながら、わかってもらえない話をさせたことは、とてもいい気な、とても残酷なことではないだろうか)、原稿だけを書き終えると、私は現場から立ち去りたかった。ごめんなさい、苦しい話をさせてしまって、聞いてはいけないことを聞いてしまって、ごめんなさい、そう言って、そのままどこまでも逃げてしまいたかった。
でも歳月が過ぎて、何もかももうすっかり忘れた頃に、思いがけず私はまたこの土地に舞い戻っている。そして何かの拍子に、きっともう亡くなっている、あのお母さんたちの声を、空耳に聞いている。
ああ、聞いてしまったんだなあ。

というようなことを思いながら、「リトルボーイ」読んでいるんだが、叙事詩、というのはすごいな。歴史を理解させる力がすごいな。日本人はこんなふうに書けないだろうな。きっと、侵略したことと戦争に負けたことの不幸は、自分の姿を正しく見ることができなくなったことかもしれない。見てしまったら、あまりの醜さに悶絶することを、たぶん予感してしまうからだ。海の向こうの鏡は、おそろしいのである。

お母さんたちのことを、書いてくれる詩人がいて、よかった。お母さんたちの国に、書いてくれる詩人がいて、よかった。