私の心の中の朝鮮学校

28日夜、
「私の心の中の朝鮮学校」日本語版出版記念イベントin大阪
に行った。

こんな狭い路地まで、在特会は来るんだなあ。日の丸と旭日旗もってた。それがすごくいやなものに見える。いやなものの象徴になる。
レイシズムがふりかざす国旗。
むかし、日本帝国主義がふりかざした国旗。

日本国民の私にとって、国旗というのはその国旗しかないのだが。いまその国旗をふりかざすのはレイシストである。それを放置している国家である。こうやって日々レイシズムに汚染されていく旗。
わたしたちの国の旗。私の国の旗。

救われないよなあ、と思う。
私はもう私の国の旗を憎まずにいられなくなっている。
民族差別禁止法くらいは制定してほしい。
むしろ日本人のために。

内容はこちら。
(モンダンヨンピルさんのブログ)
http://ameblo.jp/mongdangj/entry-11366959585.html
http://ameblo.jp/mongdangj/entry-11367071855.html

美術部の生徒たちの描いた絵のポストカードを売っていた。裁判費用にしますって言う。高校の無償化から除外されているのにくわえて、地方自治体の補助金も支給停止ということで、裁判に訴えている、その裁判費用のため。

裁判の記事
http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/4ac8929b99551920cd8831cbb96ba249

ウリハッキョ(私たちの学校)を守るために、子どもたちが、裁判費用を自分たちでつくる、という。
子どもたちにこんなことをさせてしまう、日本という国は恥ずかしい。

声楽部の主将の挨拶は、涙で声にならない。
この国は、彼らを、どれだけ傷つけているんだろう、と思う。会場からもすすり泣き。
「私たちはウリハッキョが大好きです、ウリハッキョを守りたい」
たったそれだけの気持ちを表現することの、とほうもない重さ。

日本に生まれて、朝鮮学校で学ぶ自分たちは、日朝韓の架け橋になれる存在だという静かな自負を感じました。「リムジンガン」の合唱。

以前、広島の朝鮮学校を取材したとき、2つの民族の言葉を自在に使い、3つの国を理解できる、ウリハッキョの生徒たちは、日朝韓の未来にとって、どれほど大事な人たちだろうと、思ったのだけれど、その大事な人たちの心を引き裂いていることに、こんなにも鈍感な日本という国で、
心を語れば語るだけ、いっそう傷つくに違いないんだけれど。

それはそこに、理想が息づいている証拠でもあります。

理想の側に加担したい。



二次会からの帰り際、韓国の若い女の子が、東日本大震災北朝鮮学校の記録、というパンフレットをくれて、とても情熱的に話してくれた。いまウリハッキョの撮影をしています、日本にこういう学校があることをこれまで知らなかったし、その学校がこんなに苦境に立たされていることも知らなくて、申し訳ない、とそのようなことを。(韓国のコマプレスというメディアが長期取材をしている。)

酔ってもいたんだけど、彼女のまっすぐな心情に圧倒されて、声が出なかったんだけど、一番わるいのは日本なのに、悪いともわからなくなっている日本人なのに、と私は言いたかったです。

駅まで歩きながら、真心、という言葉をしきりに思った。そんな言葉、忘れて久しいかもしれないということも。
たぶん、民族も国籍も育ってきた環境も違う人たちがそこにいて、でも、なんの隔ても感じなかったのは、そこに真心があるからだなあと、思いました。それは広々とした気持ちのいい道なのに。
その道を歩けばいいのに。



西成の安宿もそれなりに快適。

『私の心の中の朝鮮学校』読む。
朝鮮学校の子どもたちの絵と、韓国の俳優クォン・ヘヒョさんが書いた朝鮮学校の物語。最初に、韓国で韓国語で出版された。0qd_k 


http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1-%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%92%E3%83%A7/dp/4990222725

「休戦ラインの南側にいる私たちは、忘れてしまったのです。
日本に住んでいた多くの同胞たちを。
恥・か・し・く・も」

「解放されても
祖国に帰れないまま
差別と困難の中で
耐えてきた
私たちの血族を忘れてしまったのです。
本当に
恥・か・し・く・も」

「知らずに過ごしてきた月日が恥かしかったのです。
自分自身が恥かしかったのです。」

ようやく私は日本語で読んで、途中で涙がとまらなくなった。
この「恥かしい」という言葉。
むかし、家を出て広島で暮らしはじめてまもなく、大学の隣の古本屋で見つけた本で、在日朝鮮人の存在を知った。そのときに、感じた気持ち。
それから在日朝鮮人被爆者に出会っていく、歴史と差別のひとつひとつを知っていくときに、感じた気持ち。

そのころの自分に、すうっと心が引き戻されていった。

知らなかったことが恥ずかしい、とクォン・ヘヒョさんは書く。
18歳の私は、自分が日本人だということが恥ずかしかった。

あれから、ずっとゆらいでる。

歳月は過ぎて、日本人の子どもは、日本人の大人になった。
この国がいっそう残酷になってゆくなかを。



イベントでは、朝鮮学校の美術教育についてのトークもあった。
「先生たちが、生徒を信じ抜いている。それがすばらしい」
と言ったのは日本の人だった。

その声がふと耳にもどり、それに重なるように、母が死ぬ半年前に書いて送ってくれた手紙の文面を思い出した。
「私はあなたを信じ抜いてまいります」
って書いてあった。
信じてもらうに値しない娘だと思って、それっきり忘れていた。
それも18歳のときだ。



むかし兄は大阪にいた。弟も大阪にいた。叔父たちもいた。むかしむかし母も大阪にいた。
仕事を探しに行く先、あるいは追い詰められて逃げて行く先だったのだ。何年か大阪にいて、結局そこに落ち着けないまま、四国に帰ったり、またどこかに行ったりした。
みんな、大阪の、どのあたりにいたんだろうなあ、と思いながら、早朝の街を歩いた。