野極

まだ、信じられないのですが。黒岩康さんの訃報のこと。

蝦名泰洋さんの歌集『ニューヨークの唇』の支払いの請求書からは、黒岩さんの寄付の分が差し引かれていました。山中智恵子歌集のお仕事の原稿料を、そのまま蝦名さんの歌集のために寄付してくださったのでしょう。

お礼のメールが送れなくて、連絡つかなくて、胸騒ぎしていた矢先、2月に急逝されていたことを知ったのでした。
黒岩さんが、私や蝦名さんに、どんなによくしてくださったかということ、そして本当にお礼が言えないままになってしまったこと、悲しいし悲しいし、とほうにくれてしまいます。

2019年8月にお会いしたのが最後になりました。東京駅に向かう私を、電車が出るまで見送ってくださった。
上京して、連絡すると、よく私を町歩きに連れ出してくれたのでした。浅草寺界隈。上野周辺。何度かは蝦名さんも一緒だった。とても楽しかったです。
気安く甘えさせてもらっていたのでした。

黒岩さんが、私にどんなによくしてくださったかは、私が言わないと、きっと誰も知らない。フィリピンのゴミの山の学校の支援も、続けて下さっていたのでした。

 

一番最初は、私が歌集を出したとき(ということは2011年のはじめ)の批評会でお会いしたのだと思います。その前は、、と思い出して探しました。

古い貴重な同人誌を送っていただいたのでした。ブログを読んだから、と。2010年。

空蝉の薄き地獄に - 星ヶ丘ゆき (hatenadiary.jp)

この1月にも「合歓」を送っていただいたばかりでした。

黒岩さんの山中智恵子研究、この数回は「野極」という言葉に惹かれて、読んでいました。
論「山中智恵子研究(再論51)」の終わりの文を。

「最後に唐突ではあるが、智恵子による〈野極〉なる言葉の使用─その独自性について触れておけば、これは幕末から多くの志士たちが生きた〈草莽〉─その生き様を超える概念として智恵子が編み出した思想的拠点、その別称であるとだけ言っておこう」(合歓99号)

どうしよう、もう。

月を追う途中の子どもにあいさつを

  月を追う途中の子どもにあいさつをさよならみたいな青いハローを

蝦名泰洋さんの歌集『ニューヨークの唇』、完成しました。
Amazonでも発送はじまっています。クラファン協力いただいたみなさまへの発送も終えて、プロジェクトの完了報告もいたしました。

ほんとうに、ほんとうにありがとうございます。
信じられないくらい、美しい本になりました。きっと長く読み継がれる歌集だと思います。
『ニューヨークの唇』蝦名泰洋|その他の歌集|短歌|書籍|書肆侃侃房 (kankanbou.com)

装丁の美しさに、指が震えるんですけれども。
表紙の絵は、田代勉さんの日本画で「蒼い木馬」というタイトル。
歌集のなかにも木馬の歌が何首かあると思います。一番最後の木馬はコロナ禍の。生涯の終わりに近く。

  休館こそ脈打つ好機かもしれぬ木馬が息を吹き返すための

 

たいていのことは、あとがきに書いたので。第一部「ニューヨークの唇」は亡くなる前に蝦名さんが自分で纏めた180首。第三部「イーハトーブ喪失」300首は1993年刊行の生前唯一の歌集の再録。

第二部「カムパネルラ」36首は、野樹の選歌、構成。もしかしたら幽霊の蝦名さんに駄目出しされるかもしれないけど、私のわがままで並べました。責めは私に。

両吟集『クアドラプル プレイ』(2021 書肆侃侃房)に収録の歌以外から、蝦名さんの死後に、ふしぎに耳にもどってきた歌たちを。こんなふうに歌つくってたなとか、謎だけど好きとか。慕わしい歌たちを。
だいたい2013年以降の歌を順番に置いていって、クアドラプル後の歌が多いと思うけれども、一番最後の、象の眼の歌は、1992年頃の、最初の頃の両吟の。
蝦名さんが生涯の最後に、亡くなる1か月前に書いた短い詩が、象の眼の星雲のことだったんです。

  象の眼はどこか遠くの星雲に似ているさきに告げるさよなら

 

野樹が歌人であるならば、野樹を歌人にしたのは蝦名さんです。たぶんそれは、この本をつくるためだったのかもしれないと思います。出会いも別れも、「短歌さん」が仕組んだ罠だったような気がします。

たくさんの方に応援いただきました。ありがとうございます。



  

消えることに一途な虹を

消えることに一途な虹を追いかけて慣れたもんだよさよならなんて (蝦名泰洋)                     「クアドラプル プレイ」

『ニューヨークの唇』校了日に、この歌を突然思い出して、この歌入れ忘れたかしらと、気になって、ああこれは「クアドラプル プレイ」に収録されているから、もとより入れていないのだと確認したり。
他人の、しかも死者の原稿を扱う難しさ、だったのか、私の至らなさのせいだったのか、校了日の夕方まで、修正のやりとり。出版社さんには丁寧に丁寧に応じていただきました。去年の今ごろ、歌集出さなくちゃ、と考えはじめて1年、ようやく形になります。心を尽くしました。「イーハトーブ喪失」の再録もできてよかった。装丁も美しいです。

蝦名泰洋さんの歌集、今ごろ印刷されて製本されている頃です。
クラファン協力いただいたみなさま、本当にありがとうございます。いましばらくお待ちください。

予約の受付もはじまっています。500首以上収録していますが、比較的お求めやすい価格にしてもらっていると思います。若い人たちに読んでほしいです。

『ニューヨークの唇』蝦名泰洋|その他の歌集|短歌|書籍|書肆侃侃房 (kankanbou.com)

よろしくお願いします。

六月の庭

6月の庭。ぐみの実がなってた。郷里では、ぐゆみ、って言ってた。今日のおやつ。

以前に某海外ボランティアの支援をしていた人から、もらったまま、行き場を失っている文房具があるという連絡をもらった。その活動はすでに終えているので、送れなかった物品だけが、残っているという。

さて。私は、本やDVDをお金に換えて寄付してもらう仕組みの、古本募金はやっているが、古い文房具は行き場がない。私も、本当はお金しか要らない。

お金しかいらない、と私はずっと言ってきて、それで、善意の人を怒らせたりもしてきたんだけど。

近いので取りに行く。ご主人が施設に入ってしまって、老婦人だけが、捨てられない荷物といる光景を思うと、少しでも役に立てる方法を考えようかと。

で、荷物を見て、胸がいたんだことでした。文房具屋の店じまいで貰ったらしいのだけれど、小学生のノートや文具、あまりに古すぎるし、汚れすぎてるし。それでも、フィリピンの山の中の、貧困地域では役に立つこともあったんだろうか? 

こんなものを海外に送るために、ばかにならない輸送費のために、助成金の申請をし(さいわい貰えたから何年も続けられたのだろうが)、もったいない運動と称して、あちこちの学校でお話をし、卒業生たちの上履きも集め、洗って送って、という活動をずっと続けてきたのかと、その心労と愚直な努力を思ったら、たまらない感じがした。

活動をはじめた中心者が、現地を去って日本に戻ったので、終わった、らしい。
事業の頓挫は仕方ないかもしれないと思うの、いつかは終わることだと思うの。時と場所と人と、それぞれの限界もあると思うの。でも数年間、生活も含めて、どれだけ、この人たちが活動を支えたかを思ったら、、、

一晩かけて、段ボール二箱分、一冊ずつ一個ずつ、除菌シートで拭いた。鼻の奥まで埃っぽい。私死ぬまで、ノートと三角定規には困らないと思う。

かんじのおけいこ、とか、日記帳、とか、理科、とか。漢字のおけいこしようかな。日記、30年ぶりくらいに書くかな。もし長く生きのびたら、孫のノートのお下がりに、その日のことをいろいろ書きつけているような、小さなお婆さんになろう。

6月13日。レティ先生の誕生日。生きていたら81歳。SNSに、家族や友人たちがUPするレティ先生の写真が流れてきてる。フィリピン行きたいんだけど、レティ先生がいないと思うと、つらくて、まだ訪問を考えられない。

敬愛できる人に出会えた分だけ、人生の幸せと思う。


太宰治の入水心中の日でもあるらしく。(桜桃忌は遺体の見つかった19日)
折しも昨夜、息子が電話で、太宰の言葉を教えてくれる。
「学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ」(正義と微笑)
たぶん、ツイッターあたりで拾ったのだろうが。
試験の成績がよろしくないの報告との取り合わせとしては、いいんじゃないのかな。
優等生が勉強するのはあたりまえだけど、劣等生が勉強するのはかっこええと思うで、と励ましておく。ノートいっぱいあるし、低空飛行がんばって。

 

 

薔薇が咲いた

薔薇が咲いた。庭の蔓薔薇。車庫の上に咲くから、地上からはなかなか見えないけど。

薔薇のつぼみの塩漬けがうまいと教えてくれたのは近所のおじいさんだったけど、自殺してしまった。株で。あんたは儲けられないからやめておけ、とあれほど言ったのに、とパパが悔しがってた。もう15年くらい前なのかな。

別の人は、やはり株で退職金失ったとき、統合失調症を発症した。

そう考えると、私の兄が、たぶん賭け事で、人生何度も何もかも失いながら、ちゃんと?生き抜いてるのは奇跡かも。その昔、1960年代後半、証券会社、というところに兄は就職したのだ。人生の最初の躓きだった。あとは、笑いたくなるほど、躓きっぱなし。

でも私が、精神が危なかったとき、ふと、借金取りに追われて、職場のトイレの窓から逃げ出したという兄の姿を思った。私が見たわけではなく、人が母に知らせていたのを聞いたのをそのとき思い出したんだけど、なんか心強かった。

だから、どんなにぶざまでもみじめでも、人間は生きるべきだと思う。どっかでだれかを励まさないとも限らないし、と、トイレの窓から逃げ出す兄が。ちょっと感謝してる。

言わないけどね、本人にはね。

薔薇食べるとき、自殺したおじいさん思い出す。いいおじいさんだったよ。いつも畑で採れた野菜を、うちの玄関が埋まるほど、持ってきてくれた。こういう人をカモにしながら回る世界🌍🌎くるくる。

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5月が終わりますね。

パアラランのニュースレター発送しました。コロナ禍の学校閉鎖が終わって、去年から教室に子どもたちが戻っています。

https://paaralang.hatenadiary.com/entry/2021/11/19/232243(ブログもホームページも更新出来てない、😅)

レティ先生のこと思い出したり、訃報の届いた先輩や友だちの名前消してたら、突然かなしかったり。でも、涙の谷を越えてゆく。

気にかけてくださるみなさま、ありがとうございます。希望の方、ニュースレター送ります。

新学期は8月からです。

(銀行振込みしてくださった方で、ニュースレター届いてない方、連絡先がわかりません。差し支えなければ、お知らせください。)

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蝦名泰洋歌集『ニューヨークの唇』、まもなく完成の運びです。原稿を見るたびに鎖骨が痛かったのは、悲しかったからかもしれないです。

とにかく、歌を残すことができます。私は、課せられた宿題をひとつ、終えることが出来る。

ありがとうございます。

待っててくださる方、もう少し、待っててください。

 

 

忘れたり思い出したり忘れたり

気がつくと、こんな季節。鹿に襲われて滅んだいちご畑に蘇生のいちご。

きちんと世話してやれば、復活するだろう、と思うんだけど。冬は寒いし夏は暑いし、私はなまけもの、鹿よけの網だけ張りなおしたけど、草取りもせず、土もやせたまま肥料もやらず。いくつ実をつけてくれるでしょう。

母の日、らしい。フィリピンの友人たちのSNSに、パアラランのレティ先生の写真があがって、知らせてくれる。会いたい人はもういない。とおいいつか、とおいどこかで、レティ先生にまた会える運命で生まれたい。

母の日、わが家はだれも知らないわ、そんなこと。思い出させてもしょうがないので、黙っとく。うちは毎日がママの日でしょって、パパが言ったので、そういうことになってるし。ほしいものないし、してほしいこともないし。お金だったらほしいけど、誰ももってないそんなもの。

息子は、試験の成績悪くてしょげている。勉強したし、答案はしっかり埋めたのに。まわりがそこそこできているので、よけいにつらい。何を問われているか何を答えればいいかの軸があってないみたいなんだ、と言う。それたぶん、私も覚えがあるかも。経験値あげていくしかないと思います。
慣れれば軸はあっていく。年上のかしこい同級生がいてくれるなら、遠慮せず助けてもらいましょう。ノートも見せてもらいましょう。きみ、これまで田舎の公立学校の優等生しかやってないからね、ここらで苦しむのは、なかなかいいんじゃないかと思うよ。

通帳の預金残高を聞くと、〇〇円っていう。まだそれだけあるのね、と安心している私と、それだけしかないのか大変だ、と思うパパとは、育ちが違うのである。送るけど、安心して使わないで、あとがもうないんだから。

春休みの最後を、あの子は列車で南九州うろうろして、ゴールデンウィークは、九州バスの3日乗り放題の切符かなんかで、福岡長崎まで行ってたらしい。鉄道写真撮りたくて。好きなことができる元気があるのはいいけどさ。

 

5月のはじめ、今年は牡丹が咲いた。ほったらかしなので、たぶん栄養失調で、咲かない年のほうが多いんだけど。

牡丹が咲いた頃、友だちの訃報が届いた。中学高校の頃の。2月に亡くなった。3月の誕生日を待たずに。最後に会ったのが10年くらい前かな、もっと前かな。同窓会で。乳がんの治療を終えて、髪の毛もすっかりもとにもどったって、顔みてうれしくてうれしくて抱きついたのに。またねって別れたときの、最後の笑顔を、何度も何度も思い出す。

 
郷里の友だちのお母さんが、物忘れがひどくなって、一日中探しものをしているのが、かわいそうだ、と話していたのを思い出すんだけど。

ある日わたしも。一日中探しものをしていて、見つからない。見つかったのは、半年前に必要だった書類と、1か月前に必要だった書類。どうせいま探しているものも、いらなくなった頃に出てくるんだろうなと思っていたら、思いがけないものを発見した。

この紙の束なんだ、と思って見てみたら、子どもの記録。最初の6年間の、療育と幼稚園のころの。もう書いたことも忘れてたけど、読み出したら面白かった。

うちにはめっちゃ面白い子がいたんだわ。たまらん。記録しといてよかった。すっかり忘れてたけど、思い出した。思い出したけど、こんなに忘れてしまうものなんだと思ってびっくりした。決してひとりで子育てしてない。たくさんの人たちに助けてもらったと、とてもよくわかる。

毎日よく泣いてよく笑って、いつも何かに夢中で、あんなに明るかった子の顔が、くもりはじめたのは小学校から。いじめにあってから。この悔しさをどうしてくれようと思うけど、無傷なまま大人になれるはずもない。

(よくがんばって学校に行ったねという話を以前したとき、ママが校長室にお茶を飲みに行くと、そのあと、いじめた子たちが先生に叱られて、それを見ると、胸がすっとしたから、と言っていたので、ことあるごとに、パパを連れて校長室にお茶をのみに行ったのは正解だったかと、思った。卒業前に一日だけ、不登校になった。あれはほんとうに足がすくんでいけなくなるのだ。もちろん休んでいいよって私は言った、学校に電話したら、みんなで全力で守るから、と先生が電話で息子に言ってくれて、翌日からは行ったっけ)

しかし、あの子は少しは大人になってるのか?

療育で一緒だった子たち、どうしてるかしら。一歳下の子たちも、みんな高校を卒業したはず。いい人生をね。 

なまけもの、していられない。パアラランのニュースレターつくらなきゃ。

最後の両吟集

今年の、向かいの森の桜。わが家のベランダからお花見できますけれども、見ただけですね。この雨ですっかり散ってしまうでしょう。

印刷屋さんから今朝届いた。蝦名泰洋と野樹かずみの両吟集。とにかく、つくった。短歌両吟第7集『カイエ』。これが最後の両吟集。

クアドラプル プレイ』もそうだったけど、本をつくるのがいちいち悲しい。

── それはね、創作は、何かを得ることではなくて、失うことだからだよ。

30年以上前、短研の新人賞もらったときの、蝦名さんからの餞の言葉でしたが。

クラウドファンディングのページに記事UPしたので貼ります。

最後の両吟集 去年亡くなった歌人、蝦名泰洋さんの歌集を出版したい(野樹かずみ 2023/04/08 投稿) - クラウドファンディング READYFOR

侃侃房さんの短歌ムック「ねむらない樹」の「忘れがたい歌人、歌書」に、林和清さんが、蝦名泰洋さんと第一歌集「イーハトーブ喪失」のことを書いてくれていて、ありがたく。そう、蝦名さんはそうだった。きっと、そのとおりだった。

授賞式の二次会のあとのことは、忘れていたけれど、いやもう、自分の過去は、まるごと黒歴史なので、思わず顔を覆いますけれども。

亡くなってから、ようやくわかることがある。
なつかしいし、胸が痛いし。野樹は、百万回くらい、ありがとうを言いそびれてる。