みずうみへ

旅は、ひとりがいいに決まってると長いことそう思っていたけど。家族ができると家族で移動するし、旅というより移動だけど、ひとりじゃない旅をするようになる。11歳になった息子との旅が、意外に楽しかったし、そのあとも楽しかったので、人と旅することもいいなと思えるようにはなった。

十和田湖、遠すぎてひとりで行ける気がしなかったので、誘ったら、河津さん、青森まで来てくれた。おかげで楽しい旅行だった。もう、いろんな意味で。
さて、十和田湖がどこにあるかも、奥入瀬がどんなところかも、ほとんど知らないまま、早朝、バスの切符買って乗った。奥入瀬そんなに長い距離を歩くもんとは思わなかった。荷物が。靴が。しっかし、きれいだった。体のなかがまるごと渓流に変わってゆく感じ、ただただ気持ちよかった。

 

半分歩いて、あとはバスに乗った。残り半分は、いつかまた歩きにゆこう。

十和田湖に着いて、宿を探す。最安値を予約した私の責任ですけど、いつも最安値を探すんですけど、ここは凄かった。まず、建物に人がいない。

──ようこそ、限界ホステルへ。

という感じのオーナーの挨拶文によると、高齢高血圧糖尿病でコロナリスク高いので出勤しないという。紙に、日本語と英語でいろいろと指示が書いてあって、代金ここに入れての貯金箱があり、領収書自分で書いての用紙と印鑑があり。

お風呂は近くの立派なホテルの入浴券がおいてあり、料金入れての貯金箱あり。冷蔵庫の飲み物は200円、ごはんや麺は賞味期限切れなので安くて100円、貯金箱あり。
シーツとカバーは自分でかけてね、朝ははがして、ボックスにいれてね、ガムテープおいとくから、カメムシでたらこれでとってね、等々、
なんか注文の多いホステルの、床は、踏むと沈む。廊下の壁紙はがれてる。
建物、古すぎる。庭は草ぼうぼう。昭和時代のビジネスホテルというか、合宿所というか、がそのまんまな感じ(田舎には、ままあるが)。だだっ広すぎるのに、私たち以外、誰もいない(あとで、バイクツーリングのお兄さんひとり宿泊した模様)。部屋の天井のシミがすごくて、天井も剥がれかかってる。蛍光灯のカバーもない。

ひとりなら、こわさみじめさ、かもしれないけど、友だちいてくれるので、泣くほど笑った。オーナーのおじいさん、紙に書いた文章ひとつで、商売つづけようという心意気は、なんか、せっぱつまっていていいんじゃない? などと。

けど、真夜中に、寝ていたのを、天井裏を走っていったネズミの音で起こされたときには、鍵付き貯金箱につつこんだ代金、返してほしくなった。学生時代の下宿に、ネズミ出たことを思い出した。夜眠れなくて発狂しそうだったこととか。

しょうがないので、笑った。笑った笑った。楽しい思い出だわよ、ほんと。

朝ごはんは無料。冷蔵庫のパンと牛乳、自由にどうぞって。いい子なので、賞味期限の古いほうから取っていきまして。2日ほど期限過ぎてましたけど。

近くのホテルの温泉が気持ちよくて、そのホテルのなかのお店で食べた牛丼がおいしかったので(ほかにごはん食べるところが見つからなくて、どうしようと思ったけど)救われた気持ちでした。

ひとりで来なくてよかったわ。

満月だった、月のきれいなこの夜、私の息子は、友人たちと箱根のホテルに泊まって、一泊二食のその豪華さにふるえていたらしい。宿泊料金は母の10倍ですね。なんなん。
ひとりのときはネットカフェ転々してたらしいけど。

 

十和田湖畔。湖はしずかで銀いろのさざなみ、きれいだった。あたりは閑散としていた。人がほとんどいない。道路のアスファルトから草が生えている。

あたりの大きな建物が、ホテルもレストランも、のきなみ廃屋。東北の震災のあと、観光客が激減した、コロナでまた激減した、大きなホテルやレストランほどやっていけなくなったのらしい。重機がはいっているのは取り壊しのため。借地の権利がなくなった場所から、取り壊しているらしい。にしても、廃墟感はんぱない。

旧、休屋旅館をさがした。旅館は200×年にオーナーが変わって十和田湖ホテルに。新しいオーナーは東京の人で、新幹線で行ったり来たりしていたが、新幹線のなかで急死したらしい。2012年廃業。

 

かっては天皇家も泊まったというホテル、300人泊まれるというホテルは、荒れて、虎杖が茂っていた。

むかし休屋旅館には、ねぶたが飾られていた。ホテルのなかで、ねぶた祭をやった。従業員が笛も吹いたし太鼓も叩いた。テレビ局が取材に来た。A級ホテルだったのよ、と近所のお土産屋さんのおばさんが言った。おばさんも、呼ばれて跳ねっこをした。修学旅行で泊まった女の子たちも踊ったのかな。フロント係の蝦名さん、笛吹いていたらしい。

夢の跡。

十和田神社あたり、森の小径は素敵だった。この深いなつかしさはなんだろう。
あのこぶしの花びらも、このあたりから届いたのだろう。
なんか、気がすんだ。帰りのバスは八戸行。八戸駅でいかめしとせんべい汁食べたのがおいしかった。青い森鉄道のモーリーくん見つけて買った。欲しかったの。

 

十和田湖、遊覧船が止まっていた、そういえば。乗ればよかったな。あたりがあんまり廃墟なので、運航している感じがしない、静かすぎて、生きた人が乗っていい船の感じがしなかったんだ。

  桟橋は廃墟となりて数本の杭がかたむきぼくを待っている (蝦名泰洋)

 

こんなの、見つけた。廃屋の撤去予定図。


気がすんだ、と思ったのに、廃墟オタクでもなかったはずなのに、また行きたい、と思ってる。廃屋たちが取り壊されると思うと、心がざわざわする。壊される前にまた行きたい。がらんとした光景のあの廃墟をさまよいたい。
乗り損ねた遊覧船にも、乗りたい。

 

ないじょうし

東京まで来ると、東北や北海道へも行けないことはないみたい、という気がしてくる。それで、東京に住んでいたころに、北海道まで青春18きっぷで行ったのが、30年前ですか。遠すぎて、ほとんど気が遠くなりそうだった。1日でたどりつかないから、どうしたんだっけか。夜に誰ものっていないような車両で、もう横になって寝てたら、話し声がする、外国の言葉、どこの国だろう、田舎の父が、仕事先で女の子らが聞きなれん言葉で話していて、どこの方言かと思ったら、フィリピンの子らだった、と言っていたころだったから、こんなところにも、フィリピンから来てるのかなあ、と思いつつ、体を起こして見てみたら、地元のおばあさんたちのおしゃべりだったのが、なんも聞き取れんかったこととか、思い出しますけど。

北国で生まれて北国で育って生きて、ってすごいことだと、思う。私、絶対かなわない。むかし北海道で、駅で、町の嫁探ししているらしいおじいさん、眉毛の白くてふさふさしたおじいさんに声かけられたとき、無理、と思いましたもん。こんな寒いところは無理、家があって土地があって車あっても、どんないい人でも、どんな財産あっても無理、と思いましたもん。3月でしたが、3月に雪なんて、泣きそうになる。フィリピンからも嫁に来てる、って、おじいさん言ってたっけ。ああ、南の人たちもえらいです。

私は半端な四国産なので。池みたいな瀬戸内海渡るのも、すんごい勇気が要った、むかし。

さて夏の旅のつづき。
仙台一泊のあとは新幹線で八戸、青い森鉄道で三沢。わざわざ迎えに来てもらって、ありがとうございます。寺山修司記念館。森の散歩道、よかった。
来てみないとわからないことって、たくさんある。道の遠さも。りんごの木も。米軍基地の近くの轟音も。地面と空のだだっ広さも。

 

それから青森市へ。記憶にあるのは、夜の青森港。青函連絡船で渡った。青函トンネルをくぐったこともあるかな。
暗くてさびしくてたよりなかった記憶の、上書き。港のりんご。

会ってくださった方たち、ありがとうござます。とうもろこしの茹でたのもらって、宿で食べたのが、おいしかった。
弘前泊で、翌朝、お城と長勝寺と行った。なんでしょう、この暑さは。東北にいる間ずっと34度とか36度とか。何かの罰ゲームみたいに。お城でチケット売ってる女の子が、紅葉の前に葉が落ちちゃって、今年の秋まつりどうすべ、って話してるって言ってた。

 

電車の路線図とか見てると、行き着く先まで行きたくなる。ホームで止まると、降りたくなるし、行先違う電車も、ドアが開くと乗りたくなる。けど。撫牛子のなんもない駅に降りてみるだけにした。撫牛子(ないじょうし)、地名に痺れる。

 どんな子がきっと私に似てる子が撫でていたのだろう撫牛子 (蝦名泰洋)

青森市に戻って、来年なくなるかもしれないと噂の棟方志功記念館に行った。昔の番組流しているのが、よかったな。ああ、こういう表情で、こういうふうに木を彫って、こういうふうに色を置いて、生きていたのか、という。
「私は自分の仕事に責任を持っていません」と言っていた。責任をもつのは神や仏で、自分は人間として、ただ転げまわる。そんなことを。

憧れて生きて、憧れたまま死にたいなあ、と思った。何を、って、たぶん、ついに言いあてられないだろう何か、を。

知らない土地が親しくなるのは、おろおろ歩く、という行為の分だけですね。暑くてあんまり歩けなかったけど。岩木山も見たし、あとはまた今度。



走馬灯

夏の旅の話を。さて何から。

古い手紙のなかから、茶色い布の切れ端のようなものがでてきたときに、それが、十和田湖畔のこぶしの花びらだとおもいだしたときに、十和田湖、行ってみようと思った。
でも、そんなにすぐに、とはまだ思わなかった。

友だちが、子どもと使った青春18きっぷの残りがあるから、使わないかと言ってくれた。息子が使うだろう、と思った。
ある人に、まちがってメールしたら、電話がかかってきた。ああ、この人に会いに行かなくちゃ、と思った。息子さんが亡くなった知らせを受けたのが、もう一年以上前なのだった。何年前に会って以来かしら。18きっぷの残りは私が使うことにした。

息子が、中高の友人たちと、東京やら横浜やら箱根やらの旅するらしい。修学旅行のやりなおし? 男子1ダース余りが。息子は、現地集合の日よりも前に、栃木だか茨城だか千葉だか、がたんごとん追ってうろうろしたいらしく、青春18きっぷで行くというのでついていくことにした。8月25日。始発で出発。17時間後に東京に着く。乗り換え乗り継ぎいっさい、息子のあとについていくだけなので、自分で考えなくていいのが素敵。
大井川って、大きな川なんだなあと、思ったなあ。新幹線なら一瞬で渡るけど。
私は品川で降りた。あの子がそのあとどこまで行ったかは知らない。

コロナ以来だから、東京、4年ぶり。いつも泊ってた安くていいかげんなカプセルは、電話してみたら休業中で再開の見通しは立たないらしかった。あそこでずっと暮らしてたおばあさんはどこへ行ったかしら。
いつも上京すると会ってくれた人たちが、2人も亡くなってしまって、宿までないという心細さだけど、このまま行かないと、ずっと行けなくなりそうな気がして、行く。
会ってくださった人たち、はじめましての人もなつかしい人も、ありがとうございました。楽しかったです。

ちょっと近くに行ったので、昔、暮らしてたアパートまで行ってみた。大家のおばあさんが亡くなったことは知っていたんだけど。(家は廃屋同然に見えたけど、親族がひとり暮らしているらしい。)親しくしてもらっていたお隣の家の呼び鈴鳴らしてみたら、おじさんとおばさんが、きっかり22年分年齢を重ねて、でも昔と何もかわらない感じでそこにいてくれたのが、なつかしく、うれしかったです。
「ごはん食べる?」って声かけてくれるのも。

はじまりと終わりに吹く風がそっくり、と亡くなる1年くらい前に、蝦名さんが書いてきたことの意味は、わからないんだけれど、最後に入院するときに、病院の名前教えてくれながら、少し驚いてる感じだった。行ってみたら、亡くなった病院は、通っていた大学のほんの目の前だった。

ニコライ堂、のぞいたらミサだったのかな。何語かわからない、でも、主よ、と聞こえたから日本語かもしれない、勤行をしばらく聞いた。

友人が案内してくれて、蝦名さんが住んでいたアパートも、はじめて行ってみた。それなりに、暮らし、というものがあったんだろうなと思った。あたりのごちゃごちゃした下町感のせいかもしれない。アパートの前に手押しポンプが残ってた。

 

昔、東京で暮らしていたころ、私、東京をきらいだった。不自由で苦しかった。町歩きなんて、お金がないせいもあるけど、疲れてみじめなだけだし、したいとも思わなかったけど。いま、親しい慕わしい人たちがいてくれるぶんだけは、いてくれたぶんだけは、東京好きかも。
来るたびに、少しずつ、街と和解しているかも。

そのあと、仙台に行って、青森に行って、また東京に戻ってきた夜に、また友人たちに会ったら、驚いたことに、30年も昔の、私がもう全然覚えていないようなことを、思い出させてくれる、というか、いやいや思い出せないんだけど。それでもそれは私であるらしい。
死ぬときに、記憶が解凍して、走馬灯を見るっていうのがほんとなら、私、あんなことあった? そんなことした? なんかめちゃくちゃな、わけわかんない、びっくり箱から出てきた記憶のあれこれに、いちいちびっくりして、ぎゃっ、っとか叫び声あげそうな気がするわ。

いやな記憶は、むしろきちんと思い出して決着つけて、死ぬときに思い出して苦しむようなことはないようにしよう、とか心がけますけど、忘れてることについては、どうしようもないというか、走馬灯で出てきたら、そのときびっくりするよりしょうがないのかな。ああ何が出てくるんだろ。

自分自身との和解は、どんなふうに。

仙台。東京からは新幹線。人に会う約束の時間まですこし時間あったから、巡回バスに乗ってみた。青葉城跡に行ったら、空も街も広かった。私の母方の先祖は、伊達の殿様について、仙台から宇和島に来た家臣らしいので、一度は来てみたかった街でした。



 

 

 

 

 

 

 

デクノボー

前期、大学の実習で、不器用なわたしの子は、班員の足ひっぱりながらがんばっていたらしいんだけども、そのときに、宮沢賢治の「ミンナニデクノボートヨバレ」の一行を、ずっと心で思っていたらしい。

雨ニモマケズ、の詩ですね。
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ

なつかしかったのは、その詩、子どもが3歳4歳のころに、お風呂で暗唱してた詩なんだわ。絵本にあったの、なんでも覚えてしまっていたころに、いっとき毎日お風呂で唱えてましたね。こんなところで、きみを支えてくれるなんて。

本も詩も日ごろ読まない子ですけど、詩は、小学校の終わりころに模試で出会った立原道造の詩を好きになって、立原道造詩集だけ持っていって、ときどき読んで癒されているらしいですけど、「宮沢賢治の詩集あるかな」っていう。あるよ。3冊も4冊もあるよ。もってってよ。

「詩は無力じゃないさ。だってぼくらは詩や短歌を読んで生きて来れたんだもの。」
と、蝦名さんが生前、時評(洪水9号、2012年)に書いていたこと思い出したけど、ほんとだよ。
その文章はさらに続いていた。「詩じゃないから無力なんだよ」と。震災のあとに、詩は無力だとか何とか、詩人たちが言っていたのかな。

四国からもどって、10日くらいは家にいた。息子の机の上に本を積み上げていたら、彼は、ゲオルギウの「二十五時」を読みはじめた。
その本、私が高校生のときに読んで衝撃を受けた本。私の生命は私のものだ、コルホーズのものでもなんでもない、心に染まぬ生き方はできない、といって自殺する男のセリフを、書き写した記憶があるよ。その言葉を胸に、私は父と大喧嘩して、家を出ていくと宣言したのだった。生きたいように生きられないなら生きたくない、と16歳の私は言ったんだけれども、家のために13歳から働いていた父に、娘の反乱はどう見えたんだろう。たぶん、父も私も、両方ともがわけもわからず怒鳴りあっていたのだ。

読み返したいけど、紙は黄ばんでるわ、文字は小さいわ、無理だわ。

それから「おろちをとりにいく」と、家族でドライブ。奥出雲に、トロッコ列車おろち号を撮りに行く、と。気温31度を涼しく感じた。

前期は全科目合格、再試験がないとこの日わかって、よかったねえ。

芸備線沿いに、緑の野山のなかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたなる夜雨の葛の

台風6号の影響で、九州各地がドミノ倒しのように雨になっていくその直前に、うまく逃げ切って、息子は四国に渡った。4日に鹿児島を出て、青春18きっぷで、大分、熊本、長崎をまわって、7日の夜に臼杵、8日は宇和島運輸は終日欠航予定だったが、オレンジフェリーは昼までは動いた。早朝4時台に乗船して八幡浜へ。
離れて心配するのはしんどい、というより、心配するパパの相手をするのが、めんどうくさい。

私たちも午前中に出て、しまなみ海道を渡って八幡浜へ。海沿いは晴れ間もあった。伊予下灘の駅に寄る。台風で雨予報だったせいか、人も少なかった。

息子は半日八幡浜で、山に登ったり(山の上から列車撮ったり)、締め切り間際のレポート書いたりしていたらしい。

宇和島滞在中、降ったり止んだりだったけど、涼しくてよかった。父の古墳(父が半世紀以上前に市の仕事でつくった大きなすべり台)に挨拶。

9日、息子は予讃線を撮りに行くといい、パパと私の兄はつきあった、らしい。

私は友人と4年ぶりに会った。退職して、両親の介護をしている。やりたいことはたくさんあって、と言う。郷里の中世史をあきらかにしたいんだって。
宇和島の中世?と聞いたら、宇和島に中世はないよ、と言われた。江戸以前、宇和島は海だったのだ。周辺の郡部だったほうにいくつもの城があり、有力者がいて、高知のほうの長曾我部とか、松山の河野とかと、仲良かったり仲良くなかったり、していた。
いきなり、頭のなかの地図がかわった。周辺と真ん中が入れ替わってしまった。
おもしろそうなので、ぜひまとめて、本にしてもらいたい。
しかし、町も周辺も、過疎化すすんで、やがて消えてしまうのではないかしらと、こころぼそい感じ。

10日は、予土線、台風で止まっていたが、午後から走るというので、予土線沿いに。
松野、松丸駅。お盆のころに帰省できたら、ここの花火大会に来たかったけど。

久しぶりに芝不器男記念館に行く。受付の人に、番城小学校の方ですか?と声をかけられて、それは私の出身校なので、「はい、そうです」と答えたんだけど、台風なので、番城小学校の今日の見学は中止になったのです、ということでした。

遠くからなぜ?俳句をする人ですか? と聞かれる。芝不器男を知っているのが、不思議らしい。
俳句はしない人ですけど、このあたりの高校に通ったら、不器男を偏愛する国語の先生とかいて、刷り込まれるじゃないですか。

 あなたなる夜雨の葛のあなたかな /芝不器男

そのように刷り込まれた句。年表を見ると、不器男は私の祖母の2歳年上で、私の兄の高校のはるかな先輩ですね。
展示。煙草があと2本しかないと日記に書いていたり。たがいに賞めあうだけの句会になんか出ない、とはがきに書いていたり。

雨だから、屋根のあるところがいいと思って。この記念館はすごく好き。すごくなつかしいところに帰ってこれた感じがする。

 

「鰻食べさせてやりたいけどな。金がないわい」と兄が言った。このあたり、鰻は川で獲れたので、叔父がもってきたりしてたから、魚も鰻も、買って食べるものではなかったが。いまはこのあたりでもずいぶん高い、らしい。
四万十大正の道の駅に、鰻の混ぜごはんがあるというのを、旅番組か何かで見た記憶。で行ってみる。たどり着けた、鰻のまぜごはん。1200円。おいしかった。川に降りてゆけるのもいい。葛の花もう咲いていた。

 

江川崎の駅まで戻ると、ぼろぼろの駅舎の壁がきれいにペンキを塗られてた。廃線にならなければいいけど。あちこちの高校が、統合や廃校で消えていくし、通学の子どもも減っていくし。

松丸駅2階の温泉に行く。間伐材の処理のためらしい、駅舎の横に薪が積んであった。薪のお風呂。

夕方、ひとり暮らしの叔父たちの家をまわる。下の叔父は、城山のガイドのバイトをまだ続けているらしい。きれい好きだし料理もする。兄は「おかず取りに来い」の電話がかかると、おすそ分けをもらいに行く。

上の叔父が。私の名付け親ですが。一番仲良しの叔父ですが。「生きとる間に会っていけや」と兄が言った。もう80歳なのか、と信じられない思い。

市営住宅の、その家に入ると、入る前から、臭う。釣りが好きで何十年も庭先で魚をさばきつづけてたせいもあるんだろうが、もう、掃除もしない、万年床の人だから。
しかも、エアコンもない。
何年か前に暑さのせいで、糖尿の持病もあるんだけど、てんかん起こして入院して、そのときに、兄が掃除して、布団も新しく買って、一応なんとかしたが、叔父が戻って住み始めたらもとのもくあみなのだ。
台所は床が抜けてるし、畳も壁もぼろぼろだし、兄のほかに訪れる人もいない。どうすれば人間らしい暮らしになるのか、わかんない。

夏のあいだ、氷を抱いて過ごしている。

裏口からのぞいて声をかけると、布団の上に起き上がって、「よう」と笑った。もとより無口の人なので、まあ、それだけ。以前は、釣りに連れてってくれたんだけど、楽しかったんだけど、もう、無理そう。2019年が最後だった。

フィリピンのゴミ山の、山ののぼり口あたりの臭いだった。それ以上きつくなると、麻痺してどうでもよくなるんだ。

兄は、その下の叔父の庭に昔つくったプレハブの物置と、死んだ父が暮らした家の両方を行ったり来たりして暮らしている。どちらにもエアコンはない。私も一人暮らしのときはエアコンなかったから、まあそんなもんだと思うけど、最近の暑さは過酷すぎる。

お金がないので、なんともならない。

父の家は部落にある。ここも床が抜けているし、雨漏りするし、ぼろぼろだけど、大家は取り壊す気力もない。父の死後は家賃なしに、荷物おかせてもらっている。

部落は、市が、昭和50年代に、改良住宅というコンクリートの長屋をつくって、住民たちを住まわせた。(父が住んでいたのはそれ以前の家、昭和20年代ころの、らしい)。

その改良住宅がもう古いし、人もいなくて荒れてゆくし、なので、取り壊して、新しい建物をつくることになった。すでに半ば、できていて、すでに引っ越している人もいる。父は兄と暮らすつもりで申し込んでいたから、来年くらいには、残りもできあがって、兄も入居することになるのだろう。

消えてしまうと、そこに何があったかも思い出せなくなってしまう。改良住宅ができる前も、私はここに何度か来たことがあって、友達の家もあったし、友だちの家に遊びに行って帰らない弟を迎えに行ったこともあるけど、どんなだったか覚えてない。
匂いだけ覚えてる。

鶏の匂いのするところと、豚の匂いのするところと、牛の匂いのするところがあった。20年近く前までは、闘牛の牛も、近くで飼っていた。いまはなんにもいないけど。

30年前、はじめてフィリピンのゴミの山を訪れたとき、ゴミの臭いに混じって、鶏の匂いと、豚の匂いがした。あのとき、自分の子ども時代がよみがえった。それまで東京で手足が消えてしまっていたような感覚だったのに、子ども時代の感覚と、自分の手足がよみがえった。こんなことってあるんだな、と不思議で、うれしかった。魂が、もといた場所に戻った感じ、大丈夫だ、私、生きていける、とわかった。

言葉が通じないことなんか、なんでもなかった。むしろ、言葉は通じないほうが、嘘がなくてよかった。

ことなど思い出した。この路地と、あのスラムはつながっていて、私は、かつてこの路地にあった匂いに、恩がある。
来年はもう、この改良住宅は、ないだろうな。

夏の帰省終わり。11日。しまなみ海道からは息子の運転で帰る。

 

 

 

 

ひぐらしの鳴くころ

向かいの森でひぐらしが鳴く。

 たからものを埋めた(ビー玉かもしれない)ひぐらしが鳴く緑の闇に /野樹かずみ

蝦名さんとの短歌両吟の最後は、野樹のこの歌だった。この歌で終わった。
次は蝦名さんの番で、次はもうないのだけれど、歌を待っている感覚だけが、続いている。

夏の日暮れは、ひぐらしの声を待つ。天の楽器が鳴り出すみたいよね。

昔、ビー玉というものがどこで作られるかも知らなかったころ(いまも知らないけど)、ビー玉は土のなかから出てくるものだった。よく見かけて拾ったような気もするし、見つけようとしても見つからないものでもあった。この世には、なんてきれいなものがあるのだろうと思って、もって帰るけれど、でもそれをどうしていいか、わからないんだった。

鹿に滅ぼされた畑に、ブルーベリーだけがたわたわ実って、毎日ブルーベリー摘みが日課。日ごろのキュウリや卵やあれこれの野菜のおすそ分けのお礼に、ご近所に配って歩く。

しかし、暑い。

マニラは28度らしい。そういえば、コロナ前は、毎年この時期はフィリピンにいた。日本にいるより涼しかったし。
コロナの間にいろんなことが変わってしまった。以前は6月から新学期だったから、この時期に訪問するのが、クラスの様子を把握するのにもちょうどよかったけど。今は8月末から新学期。
なので、準備しなければ。送金のこととか。
秋になったら、公民館での写真展とか、国際会議場のバザーとか。
暑さと湿気の混ざり具合が、ときどきフィリピンの匂いがして、洗剤の匂いが混ざると、パアラランの、週末のお洗濯の匂い、とか思って、なつかしくて、それから、レティ先生がもういないことを思い出して、胸が痛い。

さびしすぎる。

さて夏休み。昨日まで、解剖実習やら、プレゼンやら、試験やら、口頭試問やら、バイトもできないほど疲れていたらしい息子だが、今日から夏休み。青春18きっぷもって、九州うろうろしているらしい。いまごろ、どの空の下だか。
8日に宇和島で合流の予定なんだけど、台風が、心配。豊後水道をフェリーで渡れるか。盆前のこの時期、ホテルの予約変更なんてできない(キャンセルはできるけど)。

10年以上前かな、地球温暖化で、台風は数は減るけど、大型化する、と何かの本で読んだけど、本当にそんな感じ。

子どものころ、台風が近づいてくるときの風に背中を押されて歩くのが、すごく好きだったけど。

7月26日(蝦名さんの命日)東奥日報に『ニューヨークの唇』の書評。
ありがとうございます。

 

また生まれまた会うならば

全校の運動会に人が消えひとりで踊るオクラホマミキサー/蝦名泰洋
『ニューヨークの唇』

また生まれまた会うならばブランコで緯度と経度のない公園の/蝦名泰洋
クアドラプル プレイ』

昨日7月26日が命日。3回忌までに蝦名さんの歌集を出したいと思い、出せたこと、深い安堵です。ありがとうございます。

感謝しか、ない。横に死神いるのに、ぎりぎりまで、遊んでもらった。いつか作る蝦名さんの歌集の話をしてた、その歌集。

上京すると、あらわれてくれて、真夜中にコンビニ横で、缶コーヒーでおしゃべりしてくれる友だちだった。

会いたくなったら、歌集ひらくよ。そのために作ったと思う。