ごめんなさい

 「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える人間になろう、と思ったのは、大人になってからだった。それが言えなければ、生きることはものすごく苦しいと、したたかに思い知らされたあとのこと。素直に言えるようになれば、こんなに楽になるものかと思うほど、心が楽になったのが不思議だった。「ありがとう」や「ごめんなさい」が通じないほど、世の中は悪意に満ちているわけでもないのだ。
 子どもの頃、「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うことは、しばしばとても悔しいことだった。大人との関係のなかで、それを言えばものごとはうまくおさまるはずで、だからこそ、言いたくない言葉だった。子どもが謝ればものごとは大人にとってうまくおさまり、でもそのとき、なにか違う、と感じている私の心はなかったものにされてしまう。
 「強情ですねえ」と家庭科の教師はあきれたように言った。書き直すように言われたレポートを、書き直さない、と私が言ったからだった。なぜ書き直せないかは、また別の話だが、レポートをめぐって毎日のように放課後呼び出されていた高校2年の秋、2週間ほどのことだったが、日ごとに互いに感情的になり、誤解を重ね、こじれるだけこじれた、つらい2週間だった。結局、「あんたが謝るしかないのだ」と担任に諭され、頭を下げに行ったときの吹き上げるような悲しさ。自分の正当性を主張できなければ謝るしかなく、謝ればその場はおさまり、けれども、謝っても解決しない何かは、私のなかに残されていて、(それはトラウマというものなのだが)、解消するには長い歳月が必要だった。
 
 「すてきねえ」という言葉が口癖のようになっている子どもは、おばあちゃんの家でも、台所を通る度に「おばあちゃん、すてきねえ」と声をかけていたらしく、それはもうおばあちゃんをうっとりさせていたが、この数日、子どもは「ごめんなさい」を言うようになった。叱られたあとに「ごめんなさいは?」と言われてから言うのでなく、叱られるやいなや、あっさりと、それがもう語尾の上がったかわいい声で「ママ、ごめんなさい」と頭まで下げて言うのである。叱った私のほうが悪いことをしたような気持ちになってしまう。この素直さは(調子のよさは)、とても私の子どもとは思えないが、親としては、理不尽な叱り方をしないように、せいぜい気をつけることにしよう。