「わたしたちの路地」の批評(現代詩手帖4月号)に対する反論③

もう書くつもりはなかったんだけれど、ああっ、と気づいた。
私はこの田中氏の批評に、悪意と汚らしさしか感じなかったんだけれど、もしかしたら評者は、善意なんだろうか。
(だとしたら、私は相当に口のきき方が悪かったかもしれない。ちょっと反省しよう。)
そう気づくと、しみじみかなしいけれど、もしかしたら、評者は、裏も表もなく、善意と愛をもって批評してくれているのであって、なぜ私たちが怒っているか、なんてわからないのだろうか。
せっかく教え諭しているのに、この作者たちは逆恨みしている、とか思われるだろうか。
この批評、私にはその欺瞞性が、汚くてたまらないんだが、もしかしたら、評者は、自分のまなざしの偽善とか欺瞞とか、そういうことに、全然気づいてないんだろうか。

たとえばこういうことなんだけれど。

ゴミの山の学校の支援なんてことをやっていると、そんなのは偽善だとか、お金なんか送ったってかえって自立を妨げるだけだとか、うんざりするほど言われる。で、若い人たちが、現地に行って現地の人たちと交流して、いろんなことを考えたり、出会いの喜びや活動の充実感を語ったりする。すると必ず「ゴミの山の人たちは、あんたみたいに恵まれた学生の卒論の材料になるために存在しているわけじゃないでしょう」「自己満足だろう」「自分の満足のために彼らを利用してるんだよ」などと言って、ゴミの山の現実と自分の無力との間で、でも必死に誠実に、出会いの喜びを糧に、何ができるのか何をすればいいのか、考えようとしている人たち、世界の現実と関わろうとする心に、冷や水をあびせる人が出てくるのである。
そのような人たちを、エセ知識人、ととりあえず言っておく。エセ知識人は、わたしたちがお金に困っていてもお金をくれないし、困難に取り組んでいても、励ましをくれるわけでもなく、本当にいじわるだけを言っていくのだ。彼らに悪意があるかないか、善人か悪人かはともかくとして、支援の現場では、相手にしないことにしている。役に立たないし、ひたすら邪魔だし。

「そして、詩作品に「ファクチュアル」なフレーバーを加えるために現実の社会問題が利用されている印象さえもがある。このテキストの論理のなかでは、ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。」

という評者の言葉は、上記のエセ知識人みたいにいじわるだ。

それから、
「裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。」
という、文中もっともムカついた言葉。

「裏返して考えれば」とか「逆に言うと」というような言葉を意味もなく使う人は、奥行きがあるように見せかけようとしている実は内容のない人に多い。本当に内容のある人は、もっと率直にものを言う、と思うが、ここの「裏返して考えれば」は、たぶん「作者が世界に愛を注ぐことができないのは、かわいそうな作者が愛されずに育ってきたからだ」ということを言いたいのだろうかと、ひとまずとっておく。

で、「かわいそうな作者」と名指しされた私としては、評者の言う「愛」という言葉が、本当にもう気持ち悪くてたまらない。

なんというか、とても失礼な言い方かもしれないんだけれども、路上で物乞いする子に、かわいそうに、君には愛がたりないんだね、とか声をかけてるおじさんを想像してしまう。よけいなお世話だ。あっち行け。

もしかしたら、評者は、「かわいそう」という言葉は、人を侮辱する言葉だと気づいていないんだろうか。それが私を怒らせるとか、思いもよらないんだろうか。
ゴミの山の子どもに向かっても、彼らが残飯を食べているのを目の当たりにしても、私は「かわいそう」なんて言ったことはない。そんな言葉は使えないのだ。悲惨な現実はある。でも彼らは、かわいそうな子どもではなく、どんな現実のなかにあっても、必ず幸福になる権利のある子どもだからです。
そうでなければ、対等な人間関係なんて結べない。だって私は自分自身を幸福になる権利のある子どもだと思っているもの。「かわいそう」なんていうのは、最初っから、あんたを対等の人間扱いする気はない、と言っているのとおんなじだ。
そのことがわからない人こそが、ほんとうに「かわいそう」なのだ。

はっきり言いたい。「かわいそうな作者」に愛はいらないのである。
どう言えばこのことが通じるか。

ふざけんな、タコ。
汚い手でさわるな、バカ。

今度こそおしまい。これで通じなかったら、もう知らない。