無意味なぼく

参観日。授業は社会科で、わたしたちのくらしとごみ。こないだ校外学習でゴミ処理場や埋め立て地に行った、そのおさらいですね。
落ち着きもあって、活発で、いい授業だった。しかし、自分の子ども見てると、とんでいって、腕つかみたくなるよね。ずーっと、爪噛んでるし、姿勢もわるいので、頭ひとつへこんでいるし。

休み時間に掲示物を見せてくれましたが、図画のタイトルが「カモノハシのサーカス」って、つまりアニメのカモノハシをかきたかったんだな、工作は、4種類のゲームが出てくる冷蔵庫で、暴走する車と沈没する船と墜落する飛行機の絵。
「飛行機が墜落するのが、ココアのなかっていうのが、評判よかったんだ」っていうが、誰によ。
「それで今日はこれをかいたんだ」って自由帳もってくるが、おびただしいフライドポテトの山の上に、これまたたくさんのなめこが群がっているという、おぞましいような細密画で、(最近なめこを育てるゲームにはまっている)
頭のなか、アニメとゲームが増殖している…。

夏休み、今年は耐震工事があるので、プール解放も8月6日の登校日もしませんっていう。となると、ラジオ体操の当番表また書き換えなきゃ。泳げない人のために、夏休み3日間だけプール教室開くので、それはまた案内しますっていう。

水泳の記録表見せてもらいましたが、見るまでもなく、ぶっちぎり1番ですね。うしろから。「ああ、ぼく、いきつぎができません、ぶくぶくぶく」ってしずんでいくそうで、「かわいいんですけどね」って先生いうんですけどね。

夕方、子どもと畑にじゃがいも堀りにいく。小さいし少ないけど、小さ目のバケツ一杯ぐらいはある。それで子どものリクエスト通りに、玉ねぎとベーコンのはいったポテトサラダつくる。



そうして一日はおだやかに終わるはずだったのだが、
夜、子どもが突然言った。
「ママ、ぼくはほんとうは無意味なんじゃないのかな」

?

無意味、ときたもんだ。9歳の子が。どうしてそういうこと思うの。
「なんとなく。ほら、ぼくが車のなかにいても、パパとママは買い物に行ったし、ぼくがいなくてもいいのかなって」

買い物のとき、何かしらすねて、車を降りなかったのだが、ふん、そういうことを考えていたのか。

ちょうどいま読んでいる本に、デカルトや、ニーチェハイデッガーが出てきて、わかったようなわかんないような、わかんないなあとか思いながら読んでるけど、「無意味」って言葉がどっかになかったかなとか、思うけど、思い出せないので役に立たない。

無意味なぼく、ときたよ。さてどうするよ。

あのさ、きみが無意味だったらさ、きみのおかあさんも無意味になる。
今日、ママがポテトサラダつくったことも、じゃがいもも、無意味になる。
きみのおとうさんをしているパパも、おじいちゃんやおばあちゃんが、きみにあれこれしてくれることも、全部無意味になる。きみに勉強を教えてくれる先生も、学校も、友だちも、みんな無意味になる。きみが自分を無意味にするってことは、きみが出会うひと、さわるもの、全部を無意味にするっていうことだよ。
それはとっても人やものを馬鹿にする考え方だよ。
きみが無意味なら、ママは誰のために、今日ポテトサラダをつくったの。
意味を奪われたら、ママもじゃがいもも、どれほど悲しいか。

だから、無意味なものはないし、だれも自分を無意味にしてはいけないんです。
というようなことを言ったら、
「わかりました」って言ってましたが。

魅力的ですけどね。無意味なぼくって。そりゃ考えますけどね。でも、もうすこし先でもいいような気がするよ、そういう難しいこと考えるのは。



パパが夜出かけたので、子どもひとりでお風呂に入る。と、
「ママ!!」とするどい叫び声。「ムカデだー」

また大きいのが。殺虫剤ぶっかけて、八つ裂きにする。
八つ裂きにしても動いてるもんね。

ムカデ退治して、お風呂に入った子ども。出てきた子どもの体を拭いてやっていたら、
「ぼくはママがいなかったら、とても生きていけないよ」って言う。
ママもそうだよ、って言ったら、
「ぼくが生まれる前は?」ってきく。
「ぼくが生まれる前は、どうやってママは生きてこれたの? ぼくがいなかったのに」

ほんとねえ。どうやって生きてこれたのかしらね。それは不思議だわ。