アジア主義者の夢と挫折

『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか アジア主義者の夢と挫折』
田原総一郎 PHP研究所)
という本を読んだ。

帯文
北一輝大川周明頭山満松井石根
彼らは本来、大東亜戦争に反対だった…。
大戦略を構想した巨人たちの語られざる肖像に迫る。
日本近現代史のタブーを覆す渾身の力作。

1924年11月、最後の訪日を行なった中国独立の父と称される孫文は、神戸で”大アジア主義”を宣言した。当時、アジアのほとんどの國は欧米の植民地となっており、日本と中国が協力してアジアの国々を独立させねばならないということだ。大アジア主義を唱える日本人は、それ以前から少なからずいた。私は、大アジア主義は正解だと現在でも考えている。それがなぜ大東亜共栄圏となり、大東亜戦争となったのか。大アジア主義から大東亜共栄圏への変遷、その経緯を明らかにするためには、昭和の戦争についてあらためて総括せねばならない。(本文より)



面白かった。

日露戦争で勝った日本は、列強に侵略されていたアジア諸国にとって希望であり、独立運動の拠点であり、多くの独立の闘士たちが日本に来ていた。
アグネス・スメドレーの本とか読んでいると、そのあたりのことがすこし出てくる。インドの独立運動家が、日本を経て米国に来ていたとか。で、知りたいと思っていたのだが、出てきた出てきた。独立の闘士さんたち。
それで、日本にも多くのアジア主義者がいて、命がけで彼らの面倒を見た。隣の家に匿って、壁に穴をあけて行き来したとか、細部の話が面白い。

アジア主義者たちの肖像が、非常にユニークだ。
頭山満
右翼の巨頭と言われているが、日韓併合満州事変も日中戦争もすべて反対だった。窮地の孫文を救ったり、アジア諸国の闘士たちに最も信頼されていた。
北一輝
帝国主義社会主義を結びつけて構想したり、普通選挙法や1日8時間労働も提唱したり(その多くが戦後実現し)、中国革命に参加したり、たぶん、その強烈なカリスマ性のせいで、2・26事件の主導者として処刑された。
大川周明
負けるとわかっていた大東亜戦争に反対だったのに、戦争がはじまってしまうと、これはアジアを欧米から独立させる戦争だとラジオで説いた。東京裁判のとき、精神錯乱だったらしく東條英機の頭をぽかぽか叩いた。
松井石根
孫文の革命を支援し、中国を深く理解し愛していたのに、自ら預かり知らぬ南京事件の責任を取らされて絞首刑に。自分が処刑されることで、事件の犯罪性をひとりでも多くの元軍人が理解してくれるならよい、と思った。

アジア主義者たちの、それぞれの強烈な個性に魅了されて、読み終わった。それでつまり、満州事変から日本社会は国際的に孤立して、道を誤った、というのが結論ではある。

戦後に生まれた私たちは、侵略戦争だから悪いのだ、と思っているが、それはそうなのだが、考えてみれば、帝国主義こそは、当時の世界の潮流ではあったのだ。西欧風に近代化するということ(植民地をもつということ)と、アジア主義にたつ、ということとの、どうしようもない難題の前で、たしかに日本は道を誤ったんだけれども、大東亜戦争の失敗を、負ける戦争をしたことだ、という視点は、歴史の授業では教えてもらっていないことだなあと、思った。

26年前、はじめて韓国に行って、原爆診療所の院長先生にお会いしたとき、先生が「戦争は負けたら駄目です」と言ったことを思い出した。「負けたら、みじめです」。

そのみじめさを、本当はいまもずっとひきずっているんじゃないか、という気がしきりにした。経済成長などあって、物質的な豊かさでしばらく忘れていられたかもしれないけれど、抜けない棘のようなみじめさを、ずっとひきずっているんじゃないか、そのみじめさから、いまも、自分たちを救い出せないままでいるんじゃないか。

1931年 満州事変
1932年 515事件 犬飼首相暗殺
1936年 226事件

あたりの時代のことを、読んでいたんだけど、なんのことない、この国もテロリズムの国だったんだと思ったんだけど、ビンラディンの映像見ていて、北一輝の写真など、思い出した。似てるか似てないかわかんないけど。

孫文の大アジア主義の宣言は、
日本民族はすでに欧州覇道の文化を得た。またアジアの王道の文化の本質を有している。これ以後、世界の前途の文化に対して、西方覇道の手先となるか、東方王道の干城となるか、あなた方日本人が慎重に選ばれればよいことだ。」
という一節が有名でしょうか。

その演説について、小田実が書いていた。参考までに。
http://www.odamakoto.com/jp/Seirai/050628.shtml