身元判明

今朝も雪。たいへんきれい。たいへんさむい。
電線の五線譜に、月がひっかかっている。

来日していた中国残留孤児のひとりの身元が判明。身元判明するのは久しぶりのことらしいが、よかった。それでいきなり、ずーっと忘れていた記憶がよみがえった。

うちに電話が通ったのが、小学校五年のとき。だからそれよりはあとのこと。あのころ電話というのはまだまだ普及していなくて、電話がある家は、数軒に一軒くらいだったのではないだろうか。学校の名簿の電話番号の欄には「(呼)○○方」のついた電話番号があって、それは、ご近所さんの電話だから呼び出してもらってください、ということだった。商売をしている家にはさすがに電話があって、お店屋さんは、近所十数軒の電話の呼び出しをしていたと思う。

うちの家に電話がついてからは、お隣の家、裏の2軒、の呼び出し電話もしていた。隣は、もともと一軒家だったのを、べニヤ板で区切って、2軒にして大家が貸していたから、隣に用事があると、階段横の薄い壁をどんどん叩くと、音はよく聞こえた。「おばちゃんに電話」と、そのときも壁を叩いて、呼んだと思う。

受話器をもったおばちゃんは泣き崩れた。電話は横浜だか東京だか、遠いところから。前夫が亡くなったあと、小さいころに施設に預けて以来、ずーっと行方がわからなかった娘さんからだった。20数年ぶり、だったのではないだろうか。その20数年間の間に、おばちゃんは、再婚して関東から四国まで来て、娘ふたりも生まれていた。
おばちゃんにはおばちゃんの事情があって、娘の行方を探せずにいたのだろうが、どこをどう探して見つけたのか、娘のほうが母親を探して見つけ出したのだった。
私の母なんかももらい泣きしていたし、あの夜は、感動とか感謝とか何かとてもあたたかいものに、電話のまわり、包まれていた。

あのときの電話は緑色で、部屋のすりきれかかった絨毯も緑色だった。
あのとき暮らしていた家は、もうとっくに取り壊されて、住民たちもどこかへ行き、あるいは亡くなって、あたりの田んぼも埋め立てられて、新しいきれいな家々が並び、私には、まったく見知らないよそよそしい場所になってしまったが、そういえば、あのときの緑の電話、最初の電話器を、父はまだ使っている。

陽がさしてきた。雪、とけるね。
 
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