たぶん最後の

最後のメールは木曜日。4日前。夕方、スーパーの駐車場にいたとき受け取った。

「しばらくメールを使いたくない。なしてこったにつかいにぐいんだべおくりてんたけだけどよお」

「いいよ。じゃあ、またね。」と返事した。

たぶん最後の。

その前日かその前々日のメールは、空メールだった。この10年間メールを受け取ることは、いつもどんなときも嬉しかったけど、空メールまでうれしいとは、思わなかったな。

まだ生きてる、とわかった。
その一週間ほど前に、ケータイが壊れてる、とか使いづらいとか、言っていた。本当か嘘かわからない。どっちでもいい。たしかなのは、彼はもうメールができるような状態じゃないってことだ。そのことは、さらに1週間前に、お姉さんから電話をもらって聞いていた。
今の病室は、緩和ケアの病室が開かないから、仮に入っているだけだということも。
だから、原稿のゲラのチェックは、私ひとりでするんだろうなと思っていたら、それまで言わなかった病室の番号を言ってきて、送ってもらってチェックしていた。

痛みを、どんなふうに耐えていたのか、わからない。想像するのがおそろしい。坐骨神経痛かしら、と言い出したのは1年以上前だった。それからずっと。

コロナは悔しい。面会禁止。6月の終わりに入院する前の半年間、アパートにいたときなら会いに行けたろうか。東京までゆくのは、でも無理だった。コロナでなければ、行けたかもしれなかったけれど。

東京の友だちが何度か訪ねてくれて、送ってくれた写真を見て、ただごとでないとわかった。メールでは、あと何年かは生きていられるようなそぶりだったのに。

あの写真を見なかったら、本、出さなきゃ、と思えなかった。彼の望んだとおりに、望んだ順番で。だいたいふたりともお金ないから、たいていのことはまず、あきらめてきたのだ。いつか、と先送りしてきて、でもとうとう、本当に先がないんだとわかった。

 

忘れ物はないだろうか。このあとにつくりたい本の、推敲した作品は受け取った(ずいぶん少なくなった)。散逸していた詩も、古い知人から送ってもらった。

1か月前には、最後の詩も受け取った。

30年前にもらった手紙も見つけ出した。30年前と同じことを言いつづけていたんだな。25年前に、本を出そうと言っていた。私はそれが記憶になかった。きっと考える前にあきらめていたし、夢物語のようだったし、それにたぶん、恥ずかしかった。内容の半分は、自分の作品なので、その、自分のぶんが。

もっと上手な人が相手なら、もっと楽しくて素敵だったんじゃないかと、それはずっと、少しだけ申し訳なく感じていた。でも、違う人が相手なら、私はきっとさびしかった。

プライベートなことは、ほとんど知らずに来た。偶然に知ったことしか、知らない。家族のことも聞いたことがなかった。作品は基本、虚構とわきまえていたし、虚構のなかでだけ遊べる仲間だったから。

姪ごさんになんと呼ばれていたかを知ったとき、電話でお姉さんの声を聞いたとき、いきなりいろんな景色を感じた。
途方もない、シャイな、やさしい、男の子がいたんだな、と。

 

いつどこで、会ったのか、きっと忘れてしまうから、メモ。
1990年12月東京、たぶん。1991年12月東京、1992年3月青森、1992年たぶん夏東京、もしかしたら1993年冬か春東京、1993年9月青森、1998年の手紙を最後に互いに行方不明。
2010年1月東京で再会、その後、私が上京したのは、2010年4月、10月、2011年2月、2012年2月、10月、2013年3月、10月、2014年10月、2015年4月、2016年10月、2018年10月、2019年3月、8月。たぶん。会えたとしたらそのときに。

 

磁石の同じ極をくっつけようとするときみたいな、感じがした。それが癖になる。
十数年ぶりに再会したとき、昨日会ったばかりみたいな感じがしたけど、何度会っても、いつもはじめて会うみたいにぎこちなかった。

似てたかな、と気づいたのは、最近のことだ。

ドトールでコーヒーを飲んで、なんでもないみたいに別れたのが、最後、だった。もう会えない。

 

私が忘れ物を思い出すあいだ、待っていてくれたかしら。でもまだ何か忘れてる、忘れてると思うんだけど。